巻二十二第四話 内麿の大臣、あばれ馬を乗りこなす

巻二十二

巻22第4話 内麿大臣乗悪馬語第四 今は昔、内麿(うちまろ)の右大臣と申し上げる方は、房前(ふささき)の大臣のお孫に当たり、大納言・藤原真楯(ふじわらのまたて)と申した方の御子であります。生まれつきすぐれた才能をお持ちで、殿上人(てんじょうびと)のころから朝廷にお仕えになり、すばらしく重んじられていらっしゃいました。世間の人もみな深く敬い、従わない者はいませんでした。容姿は非の打ちどころなく、また心うるわしく、人びとに重用されておいでになりました。 ところで、この大臣がまだお若くていらっしゃったとき、他戸宮(おさべのみや)と申す太子がおいでになりました。白壁天皇(光仁天皇光仁天皇)の皇子であります。この方は猛々しい性格の方で、人に恐れられておいでになりました。当時、一頭のあばれ馬がいました。人が乗ろうとすると、必ず踏み倒し噛みつきます。だから、人は絶対乗ろうとはしませんでした。ところが、かの他戸皇子が内麿に命じて、このあばれ馬に乗らせようとしました。それゆえ、内麿はこの馬にお乗りになったのですが、すべての人はこれを見て恐れおののき、「内麿は、きっとこの馬に噛みつかれ踏み倒されて、大怪我をなさるだろう」と気の毒に思い合っていたところ、内麿がいざお乗りになると、この馬は頭を垂れて身じろぎもしません。それで、内麿は難なくお乗りになったのです。その後、何度も鞭でお打ちになられましたが、それでも暴れる気配もありません。こうして、何回も庭を乗り回してからお降りになりました。この様子を見聞きした人は内麿をほめたたえ、「この方は、ただの人ではおありなさらない」と思ったのでした。

昔はこのような人がおいでになりました――とこう語り伝えているということです。

 

【原文】

巻22第4話 内麿大臣乗悪馬語 第四 [やたがらすナビ]

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

巻二十二第四話について

他戸皇子の命令によって、希代の荒馬を乗りこなし、人びとの賞賛を浴びたという、真楯の息子、内麻呂の若年時のエピソードである。

これが事実であったならば、何歳のときの出来事だろうか。

他戸親王(おさべしんのう)の父は、白壁王(しらかべのおおきみ)である。

他戸親王墓(奈良県五條市)

称徳天皇が死去する間際に急きょ群臣が協議して、天智天皇の第7皇子、施基親王(しきしんのう・志貴皇子)の第6子、白壁王を皇太子に立てることを決定し、天皇に奏上して裁可を得た。そして2か月の皇太子としての期間を経て、62歳で即位し、白壁王は光仁天皇となった。
親王の母は、聖武天皇の第1皇女で、称徳天皇の異腹(生母は夫人・県犬養広刀自)の姉、井上内親王(いのえ、または、いかみないしんのう)。伊勢斎王であったが弟の安積親王の死去によって斎王の任を解かれて帰京後、白壁王の妃になる。そして天平勝宝6年(754)、37歳で酒人内親王、天平宝字5年(761)、45歳で他戸親王を産む。(平安後期の歴史物語『水鏡』による)
他戸親王は、父系は天智、母系は天武の血を引く皇子として、宝亀2年(771)に立太子した。
しかし翌年(772)3月に、母が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、親王も連座して5月に皇太子を廃される。
宝亀4年(773)、光仁天皇第1皇子山部親王(やまべのみこ・のちの桓武天皇)が正月に立太子した後、その年の10月に死去した光仁天皇の同母姉・難波内親王を呪い殺したという嫌疑で、井上内親王と他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官宅に幽閉されて、宝亀6年(775)、4月の同じ日に死亡する。
暗殺された、とも言われている。
親王は、怨念によって竜と化したとも、雷神に転生したとも伝えられ、死後は母と共に御霊として畏怖された。

この荒馬を乗りこなすエピソードが、他戸親王の皇太子時代、宝亀2年の出来事だったとしたら、親王は数え年で11歳。両親が歳をとってから生まれた血筋の良い皇子のため、周囲が甘やかし、常日頃わがままな振る舞いがあったのだろう。政争の犠牲者、または敗者が悪く書かれるのはよくあることである。そのため、〝猛々しい性格〟と言われるほどではなかったように思われる。
これに対して内麻呂の方は、数え年で16歳。藤原北家の子弟とはいえ、傍流で父の真楯を11歳のときに亡くし、後ろ盾もなく、官途にも就いていなかった。むしろ、この出来事によって、人びとの関心を引いたことだろう。もしかしたら、そのとき天皇の側近として中務卿(なかつかさきょう)という要職に就いていた山部親王の耳にも、その評判は届いたかもしれない。
天武朝以後、皇族・貴族・官人らに武芸への習熟が強力に要請され、平安時代の初めまで文武双方に秀でることが求められていた。

律令制の導入、完成、崩壊期の天皇

乙巳の変(645)で朝廷の実力者、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし、大王家中心の律令国家造りを始めた天智。壬申の乱という後継争いを経るものの、その国家体制の建設を進めた天武(天智の同母弟)、そのあとを継いだ持統(天智の娘、天武の皇后)。
天武・持統の子で皇太子のまま亡くなった草壁皇子の第1皇子が文武で、その治世の大宝元年(701)に大宝律令が藤原不比等らによって完成した。しかし文武は慶雲4年(707)、25歳で崩御し、幼い首(おびと)皇子が成長する間、文武の母・元明、姉・元正と女帝が続く。
律令体制が完成した時期、元明の治世には和同開珎の鋳造、そして和同3年(710)、藤原京から平城京へ遷都が行われる。
元正の治世、養老年間には、養老律令の編纂、隼人・蝦夷の反乱、『日本書紀』の撰進、墾田の私有を許可する三世一身の法の制定などがあった。
神亀元年(724)、首皇子〈聖武天皇〉が即位する。藤原不比等の娘・光明皇后との間に阿部内親王、基(もとい)王、そして夫人の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に井上内親王、安積(あさか)親王、不破内親王をもうけた。しかし、基王と安積親王は幼くして死去し、阿部内親王が皇嗣となる。在世中には、天平元年(729)の長屋王の変、天平9年(735)に赤疱瘡の流行で不比等の4子が死亡、天平17年(740)の藤原広嗣の乱、天平15年(743)に墾田永年私財法の制定と大仏造立の詔を発する。しかし重税、飢饉、病気の流行などで班田農民は土地を離れて逃亡し、律令制度が崩壊を始めた。
天平勝宝元年(749)、聖武の譲位を受けて阿部内親王が即位〈孝謙天皇〉、天平勝宝4年(752)に東大寺大仏の開眼供養を行った。天平宝字2年(758)、天武の皇子・舎人親王の子である大炊(おおい)王〈淳仁天皇〉に譲位するが、不和となり、淳仁の庇護者であった藤原仲麻呂〈恵美押勝〉が反乱を起こして敗れると、淳仁を廃して重祚する。〈称徳天皇〉
道鏡を重用した称徳は、西大寺の造営など極端な仏教保護政策をして国家財政の支出を増大させ、寵臣や女官に位階や姓を濫受した。
称徳のあと、皇位についた天智の孫・光仁はそれまでの放漫な政策を改めて財政を緊縮し、班田農民の負担を軽くする政策をとった。11年の短い在位のうちに成し遂げられなかった課題は、次代の桓武へ引き継がれる。

〈『今昔物語集』関連説話〉
天智天皇:巻11「天智天皇、志賀寺を建てたる語第二十九」
元明天皇:巻11「元明天皇、はじめて元興寺を造りたる語第十五」
聖武天皇:巻11「聖武天皇、はじめて東大寺を造りたる語第十三」、巻12「東大寺にして華厳会を行ひたる語第七」、巻17「金鷲優婆塞、執金剛神に修行せる語第四十九」
孝謙天皇:巻11「高野姫の天皇、西大寺を造りたる語第十八」、巻12「大極殿にして御斎会を行はれたる語第四」
長屋王:巻20「長屋親王、沙弥を罰ちて現報を感じたる語第二十七」
藤原広嗣:巻11「玄昉僧正、唐にわたり法相を伝へたる語第六」

奈良時代から平安時代初めの政権と事件

文武朝から聖武朝の初めまで、朝廷の実力者は藤原不比等だった。
その死後は、天武天皇の孫にして、壬申の乱で活躍した高市皇子の子・長屋王。
政変で長屋王が自殺すると、不比等の息子4人が政権を担った。
しかし、藤原四兄弟の武智麻呂、房前、宇合、麻呂が天然痘で次々と亡くなり、その後、孝謙・淳仁・称徳朝では、臣籍降下した皇族で光明皇后の異父兄・橘諸兄(たちばなのもろえ)、次に光明皇后の甥で南家の藤原仲麻呂(恵美押勝)、次いで禅師・道鏡(どうきょう)が権力を握る。
称徳天皇のあとを継いで道鏡らを追放した光仁天皇、その皇子の桓武天皇も官僚としての経験があり、光仁天皇は擁立に尽力した藤原永手、良継、百川、魚名など旧来の貴族たちとも融和的であった。
けれども、延暦15年(796)、右大臣藤原継縄が亡くなった後、大納言以上に藤原氏が1人もいなくなると、桓武天皇の従兄弟にあたる皇族が太政官の要職を占めるようになる。また桓武天皇は、百済系渡来人である母方の和(やまと)氏や百済の王族の子孫・百済王(くだらのこにきし)氏一族を優遇し、外祖母にあたる土師(はじ)氏の一族にも、大枝(おおえ・のちの大江)朝臣、秋篠朝臣、菅原朝臣の姓を与えて皇族に連なる氏族としての地位を明らかにする一方、有能な官人を登用して親政を行った。

聖武朝からは政局や皇嗣に関わる事件が多発する。
橘諸兄の側近、僧・玄昉と吉備真備の解任を要求して藤原広嗣が乱を起こして敗れ(740)、諸兄が亡くなった年(757)に子の橘奈良麻呂がクーデター未遂事件を起こした。
称徳天皇が寵愛する道鏡を除こうと藤原仲麻呂が反乱を起こし(764)、天皇の異母妹・不破内親王の夫である塩焼王を反乱側の新帝として立てたため、天武天皇の孫である塩焼王はそのとき殺される。翌年(765)には、舎人親王(天武の子)の孫、皇族の和気王(わけのおおきみ)の謀反事件がある。
不破内親王が息子の志計志麻呂(しけしまろ)を天皇に擁立しようとする陰謀が発覚し、不破内親王親子が流罪となる。
(しかし、これは冤罪。道鏡を天皇にするために称徳側がしかけたと思われる。のちに、不破内親王は赦されて平城京に戻った)
この事件は五月に発覚し、同じ年(769)の秋、宇佐八幡宮神託事件が起きる。
東大寺の盧舎那仏の造立に協力と援助を申し出た豊前国(現在の福岡県東部と大分県北部。当時、銅を産出した)の宇佐八幡宮の神託として「道鏡をして皇位につかしめば、天下太平ならむ」という言葉が伝えられた。これの確認のため、特使として和気清麻呂が遣わされたのだが、清麻呂は「皇族をもって後継とするべき」と、道鏡の即位を否定した。そのため、彼とその姉には厳罰が下されることになった。
光仁朝になってからは、井上皇后の謀反大逆事件(772)。庶人に落とされた井上皇后と他戸親王が亡くなった後、他戸親王の春宮大夫であった藤原式家の蔵下麻呂(くらじまろ)が急死すると、祟りをおそれた光仁天皇は秋篠寺を建立した。しかし天変地異が続き、宝亀7年(776)の11月に天皇が病に、12月には山部親王も死の淵をさまよう大病を得る。冬には雨が降らず、これらのことは井上内親王の怨霊によるものと考えられ、翌8年(777)、遺骨を改葬して墓を御墓と追称したのだった。
この年、式家の内大臣・良継が亡くなり、宝亀10年(779)、山部親王の立太子に尽力した式部卿で中衛大将・百川も48歳の若さで死去している。のちの延暦19年(800)、早良親王の名誉回復にあわせ、井上内親王は皇后と追号され、御墓も山稜と追称された。
桓武天皇が即位した翌年(782)、聖武天皇の孫で不破内親王を母とする氷上川継(ひかみかわつぐ)の変が起きる。これに関わったとして、北家の魚名が失脚している。
その3年後、長岡京造営の責任者、藤原式家の種継が暗殺され、首謀者はすでに亡くなっていた大伴家持、指示を出したのは皇太子で桓武天皇の同母弟・早良親王(さわらしんのう)とされ、親王は廃嫡の上、淡路に流罪となったが、そこへ赴く途中、身の潔白を主張し、絶食して死去した。
こののち、桓武天皇の夫人旅子の母で後宮の女官・藤原諸姉(ふじわらのもろあね)、旅子、母の皇太后・高野新笠(たかののにいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が次々と亡くなり、皇太子も病に罹りなかなか治らなかった。原因を神官に占わせたところ、早良親王の祟りであるということなので、桓武天皇は親王の墓の扱いを丁重にして祟りを鎮める一方、長岡京を捨てて、新しい都・平安京を造るのだった。
しかし桓武なきあとも、大同2年(807)に伊予親王事件、弘仁元年(810)の薬子の変と政変が続く。

藤原四兄弟の子孫たちと北家の内麻呂の生涯

皇嗣に関わる奈良時代からの混乱した政治状況の中で、藤原不比等の4人の息子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の子孫たちもそれぞれ翻弄される。

武智麻呂(南家)には、4男1女があった。

長男の豊成(とよなり・704-766)は藤原四兄弟が天然痘で次々と亡くなったあと、藤原氏の氏の上となる。聖武朝の末期で右大臣になり、このときの左大臣は、橘諸兄だった。そして孝謙朝で、諸兄が讒言によって職を辞すと、太政官の首班に立つ。しかし天平勝宝9年(757)、橘奈良麻呂の乱において報告を怠ったとの理由で大宰員外帥に落とされた。このとき豊成は抗議の意味で病気と称し、難波にあった別荘に籠って隠遁生活を送った。8年ののち、同母弟の仲麻呂が乱を起こして敗死すると、先のことは仲麻呂の讒言によるものとして罪を赦され、右大臣に復帰する。謡曲や浄瑠璃の素材となった、伝説上の女性・中将姫の父とされている。
この豊成の次男、継縄(つぐただ・727-796)は生母が北家の参議・房前の娘だったので、嫡流として扱われ、いとこ是公の死後、桓武朝で右大臣となる。凡庸であったが人柄が良く、夫人が百済王氏で内侍(ないし)を勤めた明信だったので、桓武天皇の信頼が厚かった。

武智麻呂の次男の仲麻呂(なかまろ・706-764)は、才気煥発で祖父の不比等がやり残した養老律令を完成させた。光明皇后・孝謙天皇に信頼されて政権を掌握。女婿の大炊王が即位して淳仁天皇となるが、孝謙上皇に僧・道鏡が重用されると、それを除こうとして兵を挙げ、破れて近江で殺される。

武智麻呂の三男、乙麻呂の長男が是公(これきみ・727-789)で、山部親王の春宮大夫を勤め、桓武朝では右大臣になる。大柄で威厳があり、有能な官人だったという。
是公の娘・吉子は桓武天皇の夫人となり、皇子・伊予親王を生むが、親王は平城朝で謀反の嫌疑をかけられ、親王号を剥奪、母の吉子は自殺、そして吉子の兄弟・雄友(かつとも)は流罪、継縄の子・乙叡(おとたか)も中納言を解任された。
この伊予親王事件は、式家の仲成が捏造した冤罪事件である。これによって南家は凋落した。

房前(北家)には、7男3女。

長男の鳥養は早世したが、その次男・小黒麻呂(おぐろまろ・733-794)は藤原仲麻呂の乱の論功によって叙任され、光仁朝で参議。蝦夷の伊治砦麻呂(これはるのあざまろ)の乱(宝亀の乱)で出兵を承り、長岡京、平安京それぞれの造営の相地役を務めるなど、桓武天皇に重用された。

房前の次男、永手(ながて・714-771)は、聖武朝では不遇であった。しかし、孝謙朝からは重用され、称徳朝では右大臣、次いで左大臣となる。光仁天皇を擁立し、皇太子を他戸親王としたが、宝亀2年に永手が死去すると、翌年に井上皇后の大逆事件が起きる。これは式家の百川の陰謀とも言われている。

房前の五男、魚名(うおな・721-783)は、孝謙・称徳朝で順調に昇進し、異母兄の永手、式家の良継、百川らと共に光仁天皇を擁立する。魚名は光仁天皇の信頼が厚く、「忠臣」と官名を改められている。しかし桓武天皇が即位し、魚名が左大臣になると、翌年、氷上川継の変に関係したと疑われ、罷免されて太宰帥として赴任を強要される。息子たちも左遷され、魚名は大宰府に向かう途中、発病し、摂津国の別荘に留まることを許され、翌年には召還されたが没する。
桓武天皇は魚名が怨霊となるのを恐れたか、死後、左大臣の官職を贈り、免官に関する書類等を焼却して名誉を回復させた。
芥川龍之介の小説『芋粥』の登場人物、藤原利仁将軍は魚名の子・鷲取の子孫であり、平将門を討った藤原秀郷は魚名の五男・藤成の子孫を称している。

宇合(式家)には、9男3女。

長男・広嗣(ひろつぐ・?-740)は、聖武朝で反藤原氏勢力が台頭してきた時期、大宰府に左遷される。天平12年(740)、「天地の厄災の元凶は僧・玄昉と吉備真備であり、二人を追放すべき」との上奏文を朝廷に送るが、左大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。広嗣は召還の勅を受けるが、従わず、弟・綱手や大宰府の部下、隼人などの兵を率いて反乱を起こす。しかし、かつて父・宇合が東征したとき副官だった大野東人の追討軍に敗れ、捕えられて、綱手と共に肥前国松浦郡で処刑された。

広嗣の同母弟、次男の良継(よしつぐ・716-777)は兄の起こした乱に連座して伊豆国へ流される。2年後に赦されて叙位されるが、昇進は遅く、当時の権力者・藤原仲麻呂の暗殺を計画する。しかし事は漏れ、大不敬という罪で、天平宝字7年(763)、解官の上、姓を剥奪された。翌年、仲麻呂が乱を起こすと、詔勅を受けて兵を率い、これを討った。それからは数年にして参議となり、光仁天皇擁立の功臣として、北家の永手死去のあと、藤原氏の中心的存在として権力を握った。内大臣に任ぜられた年に死去。
妻・阿部古美奈は後宮の筆頭女官、内侍兼尚蔵を勤め、娘・乙牟漏は桓武天皇皇后で、平城天皇・嵯峨天皇の母。
もう1人の娘・諸姉は異母弟・百川の妻、そして後宮では四番めの地位・尚縫になり、諸姉の娘・旅子は桓武天皇の夫人。皇子を産み、その皇子は淳和天皇となる。
桓武天皇の後宮は百済王氏など渡来系の人びとの他は式家の女性たちで固められていた。

宇合の三男・清成の長男の種継(たねつぐ・737-785)は、称徳朝のとき、和気清麻呂と同年に叙爵されたのを始めとし、光仁天皇の擁立に尽力した式家の力によって順調に昇進。桓武天皇の信任が非常に厚かったため、延暦年間に入ると、参議次いで中納言となる。桓武天皇が遷都を望むと、山背国長岡へ遷すことを提言し、造宮使つまり遷都の責任者に抜擢される。種継の生母の実家・秦氏の根拠地が近いことから、その協力を得たいという思惑があったとも言われている。しかし遷都後まもない延暦4年(785)、監督中に矢で射られ、死亡。大伴氏、紀氏などの人びとが捕えられて斬首、流罪となった。首謀者はすでに亡くなっていた大伴家持、指示したのは皇太弟の早良親王とされ、捕えられ廃嫡された親王は、無実を訴え、絶食。配流の途中に死去した。
この種継の長男が仲成(なかなり・764-810)、娘の1人が藤原縄主の妻で内侍の薬子(くすこ・?-810)、のちに薬子の変を引き起こす。

宇合の八男・百川(ももかわ・732-779)は、官人として優れていたので、称徳天皇や道鏡に重用されていた。その一方で、道鏡への皇位継承阻止派として暗躍。宇佐八幡宮神託事件で流罪となった和気清麻呂へ密かに仕送りを続ける。光仁天皇を擁立し、山部親王が立太子する際には陰謀を巡らせたという。渡来系の生母を持つ山部親王は光仁天皇の第1皇子とはいえ、皇太子になる可能性はほとんどなかった。しかし百川は、早くから山部親王の資質を見抜き、皇位にのぼらせることを意図して行動した。百川は親王が皇太子となったあとも山部親王のために尽くし、宝亀8年から9年にかけて親王が重病に陥った際には医療・祈祷に身命を賭し、翌10年に即位を見ずに亡くなる。
山部親王は桓武天皇となった後も百川に対して深くその恩を感じ、百川の長男・諸嗣(おつぐ・774-843)が延暦7年、元服するにあたってはとくに殿上に召してその式をあげ、延暦21年、神泉苑に行幸したおりの宴会では、和琴を諸嗣に弾かせているうちに、はらはらと涙を流し、「お前の父がいなかったら、自分は皇位につくことができなかった。お前はまだ若いから、他人がいぶかるかもしれないが、自分は今も百川の功績を忘れることができなのだ」とその場で諸嗣を参議に任じた。
諸嗣は父・百川の功績によって桓武天皇に寵愛されたが、それに驕ることなく、国家のために重要と考えたことは直言してはばからない人物であった。彼の提言によって、桓武天皇はその死の前年、造都と征夷の二大事業を中止した。
百川の長女・旅子は桓武天皇の夫人となり、淳和天皇を産む。妹の帯子は平城天皇の妃。
光仁朝から桓武朝の初め、宝亀8年(775)から天応2年(782)までの間、宇合の息子のうち、九男・蔵下麻呂、次男・良継、三男・清成、八男・百川、五男・田麻呂と続いて亡くなる。
桓武・平城朝で、百川の息子・諸嗣は重きをなしていたが、嵯峨朝になると、北家の内麻呂の息子・冬嗣に地位を抜かれる。
諸嗣を最後に、式家の繁栄は終わるのだった。

麻呂(京家)には、3男1女。

麻呂の長男・浜成(はまなり・724-790)の娘・法壱(ほういつ)が聖武天皇の孫である氷上川継の妻であったため、桓武天皇の即位後、大宰員外帥に落とされ、氷上川継謀反事件のあとは関係者として参議・侍従の職を解かれて、これ以後、京家は衰えたのだった。

左大臣にまで昇り、光仁天皇を擁立した藤原北家の永手、その同母弟・真楯(またて)。内麻呂は、真楯の三男として生まれた。(756-812)
兄の真永、永継とは母が違う。内麻呂の生母は、阿部帯麻呂の娘である。11歳のとき父を喪い、おそらく母方で育てられたと思われる。
阿部氏は孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこのみこと)を祖とする、皇別氏族。古代には大王の妃や大臣を出し、名が知られたところでは、斉明・天智朝の武人・阿部比羅夫(あべのひらふ)がいる。遣唐使船で留学生として唐に渡った阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は、内麻呂の大伯父にあたる。平安時代以降は、「安倍」と称し、子孫に陰陽師・安倍清明がいる。祖父・帯麻呂は長屋王の変のとき、人を殺して死罪となっており、内麻呂が幼い頃は清廉で慎み深い伯父の弟当(おとまさ)が母方の一族の中心にいた。
16歳のとき、暴れ馬に乗ってみせ、18、9歳のとき、渡来系の飛鳥部奈止麻呂の娘、百済永継(くだらのながつぐ)との間に、真夏、冬嗣という男の子をもうける。
しかし数年後、百済永継は内麻呂と別れて出仕し、後宮で女儒となって、桓武天皇の寵愛を受けた。のちに内麻呂が中衛少将となった延暦4年(785)、皇子をもうけ、その子は臣籍降下して良岑安世(よしみねのやすよ)と名乗る。
内麻呂の父・真楯の最終官位が正三位大納言だったので、内麻呂は蔭位の特典にはあまり与らなかったようだ。彼は桓武天皇が即位した天応元年(781)に26歳で従五位下に初めて叙爵されている。このときには渡来系漢人の氏族・坂上苅田麻呂の次女で征夷大将軍・坂上田村麻呂(758-811)の妹・登子を娶っていたらしい。登子との間に、4男1女をもうけている。
延暦3年(784)からは毎年、官位官職が上がって武官文官を務め、延暦13年(794)、38歳のときに参議となる。桓武朝では重要な側近であり、平城天皇のときにはその信任を得て、右大臣となる。嵯峨天皇が即位しても引き続き右大臣として仕えている。
平城天皇が皇太子時代から長男・真夏を春宮坊の官人として仕えさせ、のちの嵯峨天皇が皇太子のときも次男・冬嗣を春宮坊の官人とし、娘・諸夏を入内させていた。
内麻呂が55歳になった弘仁元年(810)、薬子の変の際には、嵯峨天皇のそばにいて、義兄弟の坂上田村麻呂や息子の冬嗣と緊密に連絡をとり、迅速な軍事行動によって嵯峨天皇方の圧勝を導き、その2年後に亡くなった。
息子・冬嗣は〝北家中興の祖〟と称されるが、その下地を作ったのは、内麻呂と言える。

父方の伯父・永手はバランス感覚の優れた政治家だった。若くして亡くなった叔父の御楯(みたて)は軍事の才があり、第12次遣唐大使だった叔父の清河(きよかわ)は威儀がすぐれ、感心した玄宗皇帝がその肖像を描かせて、保存したという。また、清河は新羅より下だった日本の席次を上に直させ、国の面目を保った。そして母方の大伯父・安倍仲麻呂は唐の王朝に仕え、李白・王維などの文人とも親交していた。その血だろうか、内麻呂も若い頃から温和で人びとから慕われ、政務を多くこなしても誤りがなかったという。

〈『今昔物語集』関連説話〉
藤原鎌足:巻22「大織冠、始めて藤原の姓を賜りし語第一」、巻31「元明天皇の陵を點ぜし定恵和尚の語第三十五」
藤原不比等:巻11「淡海公、はじめて山階寺を造りたる語第十四」、巻12「山階寺にして維摩会を行ひたる語第三」、巻12「山階寺焼けて、更に建立せる語第二十一」、巻22「淡海公、四家を継ぎし語第二」
藤原房前:巻11「徳道聖人、はじめて長谷寺を建てたる語第三十一」、巻22「房前の大臣、北家を始めし語第三」
藤原内麻呂:巻22「内麿の大臣、悪馬に乗りし語第四」
藤原魚名の子孫、山陰:巻19「亀、山陰中納言の恩を報じたる語第二十九」
魚名の子孫、利仁:巻14「調伏法の験によりて、利仁将軍死にたる語第四十五」、巻26「利仁の将軍、若き時京より敦賀へ五位をいて行きし語第十七」(芋粥)
魚名の子孫、秀郷:巻25「平将門、謀反を発して誅せられし語第一」
伊予親王:巻11「弘法大師、唐にわたり真言の教へを伝えて帰り来れる語第九」
坂上田村麻呂:巻11「田村将軍、はじめて清水寺を建てたる語第三十二」
阿部仲麻呂:巻24「安倍仲麿、唐にて和歌を読みし語第四十四」
安倍清明:巻19「師に代りて太山府君の祭の都状に入りたる僧の語第二十四」、巻24「安倍清明、忠行に随人ひて道を習ひし語第十六」、巻24「播磨国の陰陽師智徳法師の語第十九」

 

渡来人についての補足

日本には旧石器時代から南、北そして対馬ルートでの人間の集団の移動があったが、その中で、大陸の新しい技術などをもたらした大きな渡来の波が少なくとも2つある。
ひとつは、2~4世紀、大陸では後漢の終わりから、三国時代、そして中国の一部が異民族の支配下に入った五胡十六国までの頃、争乱をさけて朝鮮半島に移住した漢人の集団が、3、4世紀の朝鮮半島の動乱によって、雄略・継体・欽明朝の頃、日本へやってきたもので、これは秦氏・東漢氏・西文氏など。
ふたつめは、6~7世紀に朝鮮半島の任那・百済・高句麗が滅んだため、やってきた韓人たちの集団。

第一波としてやってきた漢人系渡来人

秦氏(はたうじ)は、秦の始皇帝の子孫・弓月君(ゆづきのきみ)が応神朝に帰化したという。直接には、新羅・加羅方面の豪族が一族を率いてやってきたもので、はじめ九州の豊前に入り、畿内・山城の葛野(かどの)を本拠地とした。
大規模な灌漑施設を造って京都盆地を開き、農耕、養蚕、酒造り、鋳造、木工の技術をもって朝廷に奉仕した。伊奈利神(伏見稲荷)を祀り、葛野に住んでいた鴨県主(かものあがたぬし)とは姻戚関係を結んで賀茂祭りを主宰するようになり、豊前の宇佐八幡宮とも深い関わりがある。
ちなみに、京都の石清水八幡宮は清和天皇のとき、宇佐八幡宮を勧請したもので、源氏の基盤を築き、〈天下第一武勇之士〉と呼ばれた源義家(みなもとのよしいえ)が元服したことから、鎌倉時代から源氏の氏神となっている。
氏族は広範囲に住み、近江・美濃・伊勢・尾張・越前・越中・播磨・美作・備前・備中・讃岐・伊予・豊前・筑前にいる秦部(はたべ)を統率し、武蔵国にも同族がいた。朝廷の財政事務にもあずかり、桓武天皇の長岡京造営に協力し、聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の宅地跡に平安京の内裏が造られた。

漢氏(あやうじ)は、後漢霊帝の子孫といわれ、応神朝に阿知使主(あちのおみ)が一族と共に渡来したというが、朝鮮半島の楽浪郡の漢人の子孫が5世紀初め頃、移住したものらしい。大和のものを東漢(やまとのあや)氏、王仁(わに)を祖とする河内のを西漢(かわちのあや・西文)氏といい、工芸、文筆などで朝廷に仕え、蘇我氏との関わりも深い。
遅れて5世紀末の雄略朝に百済からやってきて、今来郡(高市郡)に置かれ、摂津・三河・近江・播磨・阿波などに分かれて住んだ今来漢人(いまきのあやひと)という集団もいる。
漢氏は7世紀頃から多くの氏に分かれ、そのうちの1つが坂上氏である。

第二波としてやってきた百済系渡来人

和(やまと)氏は、大和高市郡を本拠とし、百済の聖明王(せいめいおう)の子・斯我(しか)君が武烈朝のとき渡来し、その子・法師君が倭君(やまとのきみ)の祖となったものだという。和新笠(やまとのにいがさ・高野は賜姓)が白壁王、のちの光仁天皇の妃となり、新笠が産んだ息子の山部親王が桓武天皇となるに至って、帝の外戚として台頭する。

飛鳥戸(あすかべ)氏(のちの百済氏)は、光明皇后と阿部内親王に関係が深い河内安宿(あすか)郡を本拠とする。百済王族より出たといわれるが、さほど高位ではなかったらしい。桓武天皇の後宮に、飛鳥部奈弖麻呂(あすかべのなでまろ)の娘・百済永継を出してから有力となった。

百済王(くだらのこにきし)氏は、天智朝のとき白村江の戦いで百済が滅亡したときやってきた王族・官僚・農民などあらゆる階層の亡命者たちから成る。百済最後の王・義慈王の王子でそのとき日本にいた禅広(ぜんこう)王を祖とし、持統天皇のとき、百済王の姓を賜ったという。

皇子女の名前には、養育した氏族の名がつけられることが多い。皇族ではないが、藤原不比等も彼を育てた渡来人の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)からその名がつけられている。渡来系の人びとは、新しい技術でもって朝廷に仕えただけでなく、宮廷の女官や皇族の乳母になるなどして、深く関わっていた。
はやくからやってきた渡来人は、畿内に住むことを許されたが、白村江の戦いの後にやってきた高句麗人・新羅人は国の政策として東国に置かれた。
しかし、平安時代中期になると渡来人はそれぞれ日本の姓を名乗って土着化し、埋没していったのだった。

渡来人と儒教・仏教・道教。そして陰陽道について

儒教

儒教は、紀元前5世紀頃の中国、春秋時代の思想家・孔子の教えで、仁(いつくしみ)を理想の道徳とし、孝悌(孝行)と忠恕(おもいやり)をもって理想を達成する基とした。
2世紀の前漢の武帝のとき、董仲舒(とうちゅうじょ)の奏上により、国教となる。彼は、為政者の失政には天が災害をくだして戒めるという災異説や、自然と人間関係の相互の対応関係を認める天人相関説を唱えた。
日本に儒教がもたらされたのは、百済からの渡来人で西文(かわちのあや)氏の祖・王仁(わに)が応神天皇のとき、『論語』と初等教本の『千字文』を献上したことからという。
隋・唐では官吏登用試験に儒教の四書五経を用いたので、律令制の官人には儒学の知識は必須だった。律令制が崩壊すると貴族社会ではそれほど重要とはならなくなったが、禅宗では仏典と共に儒学も教えたので、臨済宗や曹洞宗を信仰した武士階級も儒学を知ることになる。徳川幕藩体制になると、幕府が儒教の朱子学を修身治国のため採用したので、農村の名主層までその知識は広まった。

仏教

紀元前5世紀頃のインドで仏陀の説いた教えが中国に入るのは、紀元67年、後漢の明帝がインドから僧を招いて『四十二章経』を漢訳させたのが初めといわれる。
日本への仏教の伝来は公的には、欽明天皇の538年、百済の聖明王が日本国に使者をつかわし、仏像や経典をもたらしたということになっているが、それ以前に渡来人によって伝えられていたと考えられる。
蘇我氏によって受容され、聖武・孝謙天皇が手厚く保護した奈良の仏教は学究的で、あらゆる方面で改革をしようとした桓武天皇は実践的な仏教を求めた。これに応えたのが、唐から帰国した最澄と空海だった。
最澄は『法華経』が釈迦の最高到達点とし、円(天台法華)・密(密教)・禅(禅宗)・戒(律宗)の四宗を融合一体化した日本天台宗を開き、桓武天皇に重んじられた。一方、空海は密教こそが大乗仏教の究極の教えだとして、純密(じゅんみつ)最勝の立場をとり、嵯峨天皇に信頼された。
仏教は入ってきた当初、鎮護国家のための教えで、個人の救済とは関わりがなかった。しかし護国三部経のうちの『法華経』が煩瑣な修行でなく、写経・造塔・造仏などによって業(ごう・カルマ)の消去・滅罪と招福が得られると説いたので、人びとは現世利益を求めてこれを行った。また、死者の追善、浄土往生のための阿弥陀信仰も流行し、奈良時代から神仏習合も始まった。
空海らによってもたらされた密教は、実践を重んじ、即身成仏を目指すものだったが、やがて皇族や貴族は、皇子誕生や禁呪などの呪術的な面ばかりを求めるようになっていく。

道教と陰陽道

中国に古くから伝えられていた呪術・医術・巫術に無為自然の老荘思想・陰陽五行説・不老不死の神仙術などから邪教的な面を排除し、仏教の教理を取り入れ、天師道と称して道教を大成させたのは、北魏の寇謙之(こうけんし・365-448)である。
日本に伝わったのは、継体朝の513年、百済から五行博士が派遣され、これが伝来の始めといわれる。けれども道教も仏教と同様、それ以前から渡来人によって伝わっていたと思われる。
【天皇】という称号は、道教の最高神のひとりとされる天皇大帝(てんこうたいてい)に由来し、その神は3世紀頃、北極星が神格化されて成立した。また天皇大帝の前身を太一神(たいいつしん)といい、伊勢神宮の遷宮にともなう用材の運搬などには明治まで「太一」と印した旗を掲げるのが慣習となっていた。他にも神道には道教由来と思われる事例が数多くある。
道教は、道(タオ・根源的な真理)と一体になることを目的とし、その方術には、風水・導引(体操)・卜筮(ぼくぜい)・奇門遁甲(きもんとんこう・方位術)・召鬼法・巫蠱(ふこ・昆虫などを使役する呪術)・禁呪(きんじゅ・呪い)・雷法・剪紙成兵術・隠形法(おんぎょうほう)などがある。
日本古来の山岳信仰と密教、道教、神道が習合したのが、修験道だともいわれている。また、空海は大学寮で学んだのち仏門に入り、唐に留学したので、儒教と道教の知識があり、身分を問わない学校として設立した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)では、儒学・仏教・道教を教えていた。

日本の陰陽道は、古代中国の陰陽五行説・十干十二支の呪術信仰が、民間道教の天文・暦数・亀卜(きぼく)・占筮(せんぜい)・天人合一説・占星術などと習合して成立した。方位術・占星術・反ばい、祓い、人形(ひとかた)などの呪法を行う。

推古朝の602年、百済僧の観勒(かんろく)が来日し、暦本や天文・地理書、遁甲・方術書を献上した。また、唐に留学した今来漢人の僧・旻(みん)は仏教の他に陰陽五行の学術を修めて帰国し、私塾で周易(しゅうえき)を講義した。そこで中臣鎌足、蘇我入鹿も学んだという。
天武天皇は、天文・遁甲術を習熟しており、701年に陰陽寮を開設し、朝廷の官僚機構に陰陽道を取り入れた。奈良時代には自然現象や人の吉凶の占いを行っていたが、しだいに呪禁(じゅごん)が行われるなど、政争にも利用されていく。藤原仲麻呂、吉備真備、弓削道鏡は陰陽道の占術に通じていた。
そして人びとの想念の中、怨霊が跋扈(ばっこ)し、百鬼が夜行(やぎょう)する平安時代が幕を開けるのだった。

[参考文献]
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』遠山美都男著、吉川弘文館
『帰化人と古代国家』平野邦雄著、吉川弘文館
『奈良の都――その光と影』笹山晴生著、吉川弘文館
『平安の朝廷――その光と影』笹山晴生著、吉川弘文館
『儒教の本』学習研究社
『お経の本』学習研究社
『密教の本』学習研究社
『修験道の本』学習研究社
『道教の本』学習研究社
『陰陽道の本』学習研究社

 

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