巻二十二第三話 房前の大臣が北家の祖となる話

巻二十二(全)

巻22第3話 房前大臣始北家語 第三

今は昔、房前大臣(ふささきのおとど、藤原房前)と申し上げる方がおいでになりました。この方は淡海公(たんかいこう・藤原不比等)の次男であります。生まれつき非常にすぐれた才能を持っておられたので、淡海公が亡くなられたのち、世の中の評判もたいへんよく、すぐに大臣まで出世なさいました。

淡海公のお子さまが四人あった中で、この大臣が家を継ぎ、この方を北家の祖と申し上げます。現在まで氏(うじ)の長者として栄えておられるのは、ただこの大臣のご子孫であります。この大臣のことをまた三咲門(さんしょうのもん)とも申し上げます。また、河内大臣(かわちのおとど)とも称しました。というのは、河内国渋河郡(かわちのくにしぶかわのこうり)□□郷(のさと)という所に山荘を造り、すばらしく風流なありさまでお住みになったからです。

この大臣の御子には、大納言真楯(またて、藤原真楯)と申す方がおいでになります。この大納言は年若く、大臣にならないうちに亡くなられたので、その御子である内麿(うちまろ)と申し上げる方が大臣にまでなって、その家をお継ぎになりました――とこう語り伝えているということです。

藤原真楯『前賢故実』より

【原文】

巻22第3話 房前大臣始北家語 第三
今昔物語集 巻22第3話 房前大臣始北家語 第三 今昔、房前の大臣と申ける人御けり。此れは淡海公の二郎也。 身の才、止事無く御ければ、淡海公失給て後に、世の思え微妙(めでた)くして、程無く大臣まで成上り給ひにけり。淡海公の御子四人御ける中に、此の大臣家を継て、此れを北家の初と申す。今日于今、氏の長者として栄給ふは...

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一

【解説】
柳瀬照美

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原文について

房前の息子の真楯は52歳で没している。その年齢なら、彼の生きた時代、「若くして」亡くなったとはいわない。ただ、1歳年上の同母兄の永手、真楯より若い異母弟の魚名より早く亡くなっているので、もう少し長く生きていたら、『今昔物語集』の著者が言うように大臣になっていたかもしれない。

藤原房前

藤原不比等の次男・房前は、内臣として皇族の長屋王と交流があったため、長屋王を陥れ、自殺に追い込んだ【長屋王の変】のとき、他の兄弟と違って、その謀略に協力するのに消極的だったか、もしくは参画していなかった、という説がある。
政敵の長屋王を取り除いたあと、不比等の後継者は【長屋王の変】で中心的役割を果たした長男の武智麻呂と決まった。
房前は、天然痘で四兄弟のうち一番初めに倒れ、正三位の参議民部卿という官位で亡くなった。四兄弟が全員没してから、正一位左大臣を追贈されている。

北家の房前には、7人の息子と3人の娘があった。
息子は、長男・鳥養(とりかい・生没年不明)、次男・永手(ながて・714-771)、三男・真楯(またて・715-766)、四男・清河(きよかわ・生没年不明)、五男・魚名(うおな・721-783)、六男・御楯(みたて・?-764)、七男・楓麻呂(かえでまろ・?-776)
娘は、宇比良古(うひらこ、または袁比良 おひら・?-762)が尚蔵兼内侍・正三位という後宮最高位の女官、そして南家の次男で有力者・藤原仲麻呂(惠美押勝)の妻となっている。あとの2人のうちひとりは聖武天皇の夫人となり、もうひとりは南家・武智麻呂の長男で藤原氏の氏の上(うじのかみ)、藤原豊成(とよなり)の妻となっている。
このうち、永手、真楯、御楯、聖武天皇夫人となった女子は母を同じくする。
彼らの母は、祖父・不比等の後室で光明皇后の生母、県犬養三千代と前夫・美努王との間に生まれた牟漏女王で、皇族の母親という出自の良さから、房前の子供の中では彼らが嫡流とみなされる。

藤原四兄弟が亡くなったあと、聖武、孝謙、淳仁、称徳(孝謙の重祚)、光仁と天皇が代わる間、最初に政権を担当する有力者となったのは、光明皇后の同母兄・橘諸兄(たちばなのもろえ)だった。聖武天皇の皇嗣・阿部内親王が即位してからは南家の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)、唐風に改名して恵美押勝(えみのおしかつ)が次に権力を握り、上皇となった孝謙が寵愛したのは、僧・道鏡(どうきょう)である。
諸兄の側近、僧・玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を除こうと大宰府で挙兵した、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は式家の長男だったので、この乱によって式家は凋落した。
道鏡を除こうと乱を起こした南家の仲麻呂が死に、称徳(孝謙)天皇の崩御とともに道鏡が地位を追われると、式家の良継(よしつぐ)、百川(ももかわ)兄弟の策謀が始まる。

このような混乱した政治状況の中、北家は南家や式家ほど振るわなかった。
長男の鳥養は20代で早世しており、四男の清河は遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂と共に唐朝に仕えたが、安史の乱などで帰国が叶わず、大陸で死去した。
次男の永手は聖武朝では不遇だった。孝謙朝になって重用されている。右大臣で氏の上の藤原豊成が没すると、あとを継ぎ、道鏡が実権を握る称徳朝で、藤原氏の立場を守るために苦慮した。光仁天皇擁立の功で正一位、死後、太政大臣を贈られた。
三男の真楯は、初め八束(やつか)といったが、唐風名「真楯」を賜る。聖武天皇に才能を認められ、藤原仲麻呂政権のときも協力的だった。仲麻呂の乱では孝謙上皇に味方し、右大臣になった永手のあとを受けて大納言となるが、亡くなる。『万葉集』を編纂したといわれる大伴家持、『貧窮問答歌』で有名な山上憶良とも交流があったらしい。息子は3人あったが、上の2人に才はなく、三男の内麻呂が桓武天皇に重用される。
五男の魚名は、淳仁朝、称徳朝で順調に昇進し、称徳天皇が崩御すると、永手、良嗣、百川と共に白壁王を皇嗣に擁立。光仁朝になると兄・永手が亡くなったあとを継ぎ、北家の代表としての地位を築く。しかし桓武天皇が即位すると、太政官首班の魚名を邪魔であるとした天皇によって突然、左大臣を罷免され、大宰府に息子たちと向かう途中、病を得、没する。
六男の御楯は、初め千尋といった。藤原仲麻呂の側近として軍事面を担っていたが、乱の起こる数か月前に死去。
七男の楓麻呂も仲麻呂の側近として昇進するが、乱のときは討伐する側に回り、その功によって叙勲されている。光仁朝でも参議まで昇ったが、死去している。

この兄弟の中で、『今昔物語集』の著者が真楯の名のみ記したのは、その息子・内麻呂の代から彼の血筋が北家の中心となり、真楯の系統から3代の天皇の外戚となった御堂関白・道長を出したことによる。

藤原道長(菊池容斎『前賢故実』より)

参考文献:小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

“律令制を取り入れるまで”と奈良時代、官制について

アフリカ起源の人類が、まだ大陸と地続きだった日本列島にやってきたのは、可能性としては約25~10万年前、石器で確認される物証レベルでは、約4万~3万数千年前と言われる。(参考:千田稔監修『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』洋泉社)

大陸から分かれた列島に、北海道、対馬、沖縄の3つのルートで人びとはやってき、ミトコンドリアDNAの調査の結果からいうと、縄文時代、多様なDNAを持つ集団が混在していた。
分子人類学者の篠田謙一博士はその著書『DNAで語る日本人起源論』(岩波現代全書、2015)で、中部以東の東日本に9割以上集中する縄文遺跡の古人骨から取り出したDNAを調査して、そう述べている。ちなみに、弥生人のDNAは中国東北部、朝鮮半島の集団と共通し、本土日本全域で現代日本人と同じ遺伝的構成が完成するのは、江戸時代だという。

日本最大級の縄文遺跡、三内丸山遺跡(青森県青森市)

紀元前後には百余りの「クニ」が成立し(『漢書地理志』)、3世紀前後、倭国大乱のため、邪馬台国王卑弥呼を共立(『魏志倭人伝』)、3世紀後半には西日本に大規模古墳が出現し、ヤマト政権が形成され始めていたと考えられる。
4世紀の後半から5世紀の初め、倭はたびたび朝鮮半島へ出兵し、5世紀中頃、中国・南朝の『宋書』に書かれた倭の五王のうちの武、すなわち雄略天皇のときには、ヤマト政権は国内を統一していた。

ヤマト政権は、大王(天皇)を頂点として畿内を中心に形成された豪族らによる連合組織のようなもので、5世紀から6世紀にかけて作られた氏姓制度によって運営されていた。
「氏(うじ)」は血族を中心とした集団で、祭祀などを行う統率者を氏の上(うじのかみ)といい、律令制施行以後は、一族の中で官位が最も高い者がなった。平安時代からは、氏の長者という。
「氏」には、地名に由来するものと職能名に由来するものがあった。「氏」は田荘(たどころ)という私有地を持ち、それを耕作する部曲(かきべ)という私有民、ヤツコという奴婢を所有していた。
「姓(かばね)」は大王から氏に与えられた称号で、政権内での地位を表す。

中国では隋から唐へ王朝が代わり、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が三つ巴になって争っていた。やがて唐と新羅が手を結び、倭の友好国・百済を圧迫しはじめたとき、中大兄皇子と藤原鎌足を代表とする人びとが、大王を中心とした強力な中央集権体制の必要性を感じ、乙巳の変を始まりとする大化の改新を行い、唐の律令制を導入した。

これは、徳川幕藩体制から天皇中心の近代国家へ政治体制を変革した、明治維新に似た部分があるように思う。

氏姓制度に代わって導入した律令制とは、刑法的な「律」と行政法的な「令」、改正法の「格」、施行細則の「式」という法による統治である。
一律的に耕作地を班給し(公地公民・班田制)、個人に課税(租庸調制)、一律的に軍役が課せられ(軍団制)、地方行政としては国郡里制をとり、末端近くまで官吏が体系的に配置されて、戸籍・計帳が作製された。

為政者の命令を確実に行うためには、高度に体系化された官僚制が必要となる。
文書主義でもあるため、学力で選ばれて登用することが行われるが、日本の場合、蔭位の制(おんいのせい)という例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には自動的に官職が与えられた。

儒教的な父系社会になっていた唐で作られた律令の法体系は、まだ母系が強かった日本の実情に合わないところもあり、律令制を入れるにあたって、変えた部分もある。その1つが女官についてで、唐の女官は皇帝の「家」のために奉仕したが、日本の女官は行政システムの一部となり、県犬養三千代の例に見るように政治的にも重要な役割を担った。(参考:伊集院葉子著『古代の女性官僚』吉川弘文館)

日本で官位というのは、位を表す「位階」と人が就く「官職」の総称である。
「位階」は、一位から初位(そい)、それぞれ正と従(初位は大と少)の、合わせて30段階あり、これに応じて田地・食封・現物・人が支給された。
「官職」は、太政官をはじめとするさまざまな公職。三位までに相当する官職、すなわち太政大臣、左・右大臣、大納言、大宰帥に対しては、職田・職封・資人などが給付される。
位階と官職は相当しており、まず位を持ち、官職に就く。正・従二位の者が左・右大臣に、正三位の者が大納言に任ぜられるなど、定められていた。三位以上は「貴」、五位以上は「通貴(つうき)」、六位以下は実務にあたる下級官人。
この中で、平安時代に殿上人(てんじょうびと)と呼ばれるのは、清涼殿南庇の殿上の間に伺候することが許された四・五位の中から選ばれた天皇の側近である。

官位制は世襲を排して有能な人材を登用するのを目的としたが、蔭位の制を設けるなど、初めから骨抜きにされ、形骸化しながらも明治になって律令法が廃止されるまで続いた。位階の方は栄典制度のひとつとして現在も存続している。

律令国家が完成したと思われる時期、元明天皇が和同3年(710)、藤原京から平城京へ都を移した。途中、聖武天皇が恭仁(くに)京、紫香楽(しがらき)京、難波京と遷都をした期間を除けば、延暦3年(784)、長岡京に遷都するまで74年間、国の中心だった。

早朝、太鼓の音と共に平城京の門が開かれ、貴族から下級の者まで、総勢1万人近い役人たちが出勤する。
仕事は午前中までなので、下級の者たちなどは「東市」「西市」という官営の市場で現物支給された給料を必要な物と交換する。それでも下級の者は生活できないので、休みをとって口分田を耕す。
地方から徴集された衛士や雑用をする壮丁、税の調庸を運んでき、帰郷できなくて流民となる人びと。飢饉、疫病、天災、暴れる盗賊、相次ぐ反乱。
聖武天皇は大仏建立によって国家の平安を祈ったが、遷都などの出費に加えて国の財政はかえって乱れ、重い負担に耐えかねた農民の逃亡が続出し、公地公民という土地制度は瓦解、律令国家の崩壊を早めただけだった。
(参考:馬場基著『平城京に暮らす』吉川弘文館)

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