巻11第28話 智証大師初門徒立三井寺語 第廿八
今は昔、智証大師(円珍)は、比叡山の僧として、千光院というところに住んでいました。天台座主としてかの院にいらっしゃったのです。天皇をはじめ、世をあげて大師をかぎりなく貴びました。
大師は、比叡山とは別に、自分の宗門を立てたいという気持ちを持っておりました。
「私の門徒(信者)に仏法を伝えるために適当な場所があるだろうか」
あちこち探した末、近江の国の志賀(滋賀県大津市)に、昔、大伴皇子が起こした寺がありました。その寺の様子は、たいへん貴いものでした。東には近江の江(琵琶湖)を臨み、西は深い山であり、北は林、南は谷になっていました。本堂は瓦で葺かれ、二階建てで、屋根は裳層(もこし、装飾屋根)になっていました。その内に丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の弥勒菩薩像が安置されていました。
寺のわきに僧房があり、寺の下に石筒でかこまれた井戸がひとつ、ありました。この寺の住僧が言いました。
「この井はひとつですが、寺の名は三井といいます」
大師がわけを問うと、僧は答えました。
「三代の天皇の産湯水を、この井から汲みました。それで三井というのです」
僧房に行ってみると、まったく人の気配がありません。ただひとつ、荒れ果てた房があって、たいへん年老いた僧がいました。よく見ると、魚の鱗や骨などを食い散らかしていて、その匂いがひどく臭いのです。
傍の房にある僧に問いました。
「この老僧はどんな人なのか」
「年来、江(琵琶湖)の鮒(フナ)を取って食うことを仕事としている者です。その他には何もしません」
しかし、どこか僧は貴く見えます。
「何かわけがあるのだろう」
老僧を呼び出し話を聞きました。
老僧は語りました。
「私はここに住んで、すでに百六十年になります。この寺は、建造して百八十年になりますが、弥勒が世に出るまで保つべき寺です。しばらくはこの寺を護るべき人がいなかったのですが、今日、幸いにも大師が来られました。この寺は永遠に大師に譲ります。大師より外に持つべき人はありません。私は年老いて、心細く思っていました。伝えられることは、喜ばしいことです」
老僧は泣く泣く房に戻りました。
そのとき、唐車に乗って貴人があらわれました。大師を見ると、喜んで告げました。
「私はこの寺の仏法を守ることを誓った者である。今、大師にこの寺を伝えることができた。今後は大師が仏法を弘められるだろう。深く頼りにしよう」
そう約束していきました。この人が誰かわからず、お供の寺の人にたずねました。
「あれは三尾の明神です」
ただの人ではないと思っていました。
老僧の様子をよく見ようと思い、房に戻ると、以前はひどく臭かったのに、かぐわしい香りがしています。やはりそうだと思って入っていくと、鮒の鱗や骨と見えたのは、蓮の華の茎のあざやかなものを、鍋に入れて煮て、食い散らかしたものでした。驚いて隣の房に行ってたずねると、僧が答えました。
「この老僧は教代和尚という人です。弥勒菩薩と見る人もあります」
大師はこれを聞くと、いよいよ敬い貴び、(寺を護ることを)深く契って帰りました。
その後、経論と正教を広め、多くの弟子とともにこの寺に仏法を弘めました。今なお仏法がさかんです。三井寺の智証大師というのはこの人です。大師が唐に渡って得た大日如来の宝冠(五智宝冠)は今なおこの寺にあると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
円珍は比叡山から独立し、三井寺を本拠として寺門派をおこした。山に残る者は山門派と呼ばれ、主として円仁の弟子たちによって構成された。両者は天台宗を二分する勢力となる。織田信長の比叡山焼き討ちも遠因はここにある。
釈尊は現在の仏、弥勒は未来の仏である。「この寺は弥勒が出るまで保つべき寺だ」という考え方はそこから来ている。三井寺の本尊・弥勒菩薩像は秘仏となっている。
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