巻11第27話 慈覚大師始建楞厳院語 第廿七
今は昔、慈覚大師(円仁)は伝教大師(最澄)の入室写瓶の(瓶の水をうつすように教えを得た)弟子として、比叡山を受け継ぎました。仏法興隆の志はことに深いものでした。首楞厳院を建立して中堂を建て、観音・不動尊・毘沙門の三尊を安置しました。また、唐から多くの仏舎利を持って帰国しました。
貞観二年(860年)、惣持院を建て、舎利会を始めて、この山に伝えました。多くの僧を請じ、音楽を奏でさせることを永き事としました。定められた日はなく、山の桜が盛りのときにおこなわれました。
貞観七年(865年)、常行堂を建て、七日七夜にわたり不断の念仏を修させました。八月十一日から十七日の夜まで、たえなく阿弥陀如来と聖衆を讃奉る声を唱えさせます。引声といいます。大師が唐よりこの山に伝えた行事です。身には常に仏を迎え、口には常に経を唱えます。心は常に浄土を思います。身・口・意(心)に宿った三業の罪をなくすために、これよりよい方法はありません。
唐に赤山という神がありました。大師を守ることを誓い、大師とともに唐からこの朝(日本)にわたりました。その後、比叡山に留まり、今は楞厳院中堂の傍に在ります。山の仏法を守る誓いをたて、この山に留まっているのです(赤山禅院)。
山に椙(杉)の大木がありました。大師はその木のうつろ(空洞)に住み、定められたとおりに法華経を書写しました。それが終わると、堂を建ててこの経を安置しました。如法堂はここにはじまります。そのとき、この国のやんごとなき神はみな誓いをたて「順番を決め、交代でこの経を守る」と誓いました。この経はまだ堂に安置されており、椙のうつろもあります。道を求める人は、必ず参り礼奉るべきです。
横川の慈覚大師とはこの人であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一


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