巻十一第二十五話 弘法大師空海が高野山を開いた話

巻十一(全)

巻11第25話 弘法大師始建高野山語 第廿五

今は昔、弘法大師(空海)は、真言の教え(密教)をさまざまな所に弘め、老に臨むと、多くの弟子に寺をゆずりました。
「私が唐にいたとき投げた三鈷が落ちたところに向かおう」

三鈷

弘仁七年(816年)六月に、王城(京都)を出ました。大和国宇智の郡(奈良県五條市)に至り、一人の猟人と出会いました。

猟人は顔が赤く、八尺(約2,4メートル)ほどの身長がありました。青い色の小袖を着ています。骨が高く、筋が太く、弓箭(弓矢)を持っていました。大小二匹の黒い犬をつれています。大師を見て、通り過ぎるときに問いました。
「あなたはどんな聖人ですか」
大師は答えました。
「私は唐で三鈷を投げ、『禅定にふさわしい霊穴に落ちよ』と誓願しました。今はその地を探しています」
猟者は言いました。
「私はこの南山(高野山の異称。比叡山を北嶺と呼ぶ)の犬飼です。その場所を知っています。すぐに教えてさしあげましょう」
犬を放ち走らせました。やがて犬は見えなくなりました。

弘法大師縁起より『高野尋入』

大師は紀伊国(和歌山県)の堺、大河(吉野川)のほとりに宿しました。ここで一人の山人に出会いました。大師が問うと答えました。
「ここから南にいくと平原があり、沢が流れています。その場所です」

翌朝、山人は大師ともに行くとき、ひそかに語りました。
「私はこの山の王です。すみやかにこの領地を奉りましょう」
山の中に百町(約100ヘクタール)ほど入りました。鉢を臥せたような地形になっていて、その周囲を八つの峰が取り囲んでいました。言葉にできないほど大きな檜が、まるで竹のように並んで生えています。その中に、大きな竹が生えていました。三鈷はこの竹の股(異界の入り口と考えられた)に打ち立てられていました。大師はこれを見てかぎりなく喜びました。
「これこそ禅定の霊崛である。あなたは誰ですか」
「丹生(にう)の明神といいます。天野の宮(天野神社)の神です。犬飼は高野の明神といいます」
そう言い残して消えました。

大師は都にもどり、すべての職を辞して、弟子にゆずりました。東寺を実恵僧都に、神護寺を真済僧正に、真言院を真雅僧正に与え、高雄(神護寺)を棄て、南山に移り入り、幾多の堂塔房舎をつくりました。その中に、高さ十六丈(約48メートル)の大塔(根本大塔)を建て、丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の五仏を安置して、みずから御願として名づけ、金剛峰寺としました。

根本大塔

また、入定の場所(奥の院)をつくりました。承和二年(835年)三月二十一日の寅時(午後四時ごろ)、大師は結跏趺坐し、大日如来の印を結んで、そこで入定されました。六十二歳。弟子たちは、遺言によって、弥勒菩薩の名号を唱えました。

高野山奥の院

その後しばらくたって、この入定の部屋を開き、髪を剃り、衣を着せ替えました。やがてそれも久しく行われなくなっていましたが、般若寺の観賢僧正という人が東寺の次席であったとき、山に詣でました。大師にとっては曾孫弟子に当たる人です。
入定の部屋を開けると、霧が立ち暗夜のようでまったく見えません。しばらく待って霧がしずまったころ見てみると、衣の朽ちたものが塵になり、風が入って吹き立てられ、霧のように見えたのでした。

塵がしずまったので、大師の姿が見えました。髪が一尺(約30センチ)ほど伸びていたので、僧正みずから水を浴び、浄衣を着て入り、新しい剃刀で髪を剃りました。水晶の念珠の緒が朽ちて、大師の前に水晶の玉が落ちて散らばっていました。これを拾い集め、緒をつけて、手にかけました。衣は清浄に調え、着させて、部屋を出ました。僧正は部屋を出るとき、まるで今はじめて別れたように泣き悲しみました。その後は、恐れ多いために、部屋を開こうという人はありませんでした。

しかし、人が詣でるときには、堂の戸がすこし開き、山に鳴る音が響くことがあります。金(金鼓)を打つ音がすることもあります。さまざまな不思議なことがありました。鳥の声すらめったに聞こえない深い山中ですが、恐ろしい思いをすることはありません。坂(町石道)の下に丹生・高野の両明神が鳥居を並べてあり、誓のとおり山を守っています。

「不思議な、奇異の土地だ」といわれ、今なお人が参ることが絶えません。女人禁制になっています。「高野の弘法大師とはこの方だ」と語り伝えられています。

【原文】

巻11第25話 弘法大師始建高野山語 第廿五
今昔物語集 巻11第25話 弘法大師始建高野山語 第廿五 今昔、弘法大師、真言教、諸の所に弘め置給て、年漸く老に臨給ふ程に、数(あまた)の弟子に皆所々の寺々を譲り給て後、「我が唐にして擲(な)げし所の三鈷、落たらむ所を尋む

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

【解説】 草野真一

伝説によれば、空海が唐から日本に向けて三鈷を投げたのは、帰国する寸前(806年)である。本話の記述を信じれば、約10年後にその三鈷の行き先を探しはじめたことになる。

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丹生都比売神社

空海が入定したとされる高野山奥の院には、現在も空海が生きて在るとされ、高野山の僧侶によって毎日食事が運ばれている。本話に観賢がその姿を見たと記述されているが、これ以降、入定の部屋に入った者はない。

弘法大師という称号は、観賢が奏請して得たものだ。

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