巻十一第六話 后と僧とのあやしい関係を讒言し怨霊となった藤原広嗣の話

巻十一

巻11第6話 玄昉僧正亙唐伝法相語 第六

今は昔、聖武天皇の御代に、玄昉という僧がありました。俗姓は阿刀の氏、大和国(奈良県)□□の郡の人です。幼くして出家して、法の道を学び、とても深い智恵を持っていました。

玄昉(奈良市興福寺、平安晩期)

法を広く学ぶため唐に渡り、智周法師という僧を師とし、大乗法相の教法を学び、多くの典籍を持ち帰りました。かの国の皇帝(玄宗皇帝)は玄昉を貴び、高い位を与え、紫の袈裟を着させました。かの国に二十年いて、天平七年(西暦735年)遣唐使の丹治比の真人広成(たじひぼまひとひろなり)とともに帰国しました。経論五千余巻と仏像等をもたらしました。その後、公に仕え、僧正となりました。

天皇の后である光明皇后はとても玄昉を貴び、帰依しました。玄昉は幾たびとなく皇后に会うために出かけ、后はこれを寵愛しました。世の人はこのことに、よからぬ噂をたてました。

『光明皇后』下村観山 1897 宮内庁三の丸尚蔵館

そのころ、藤原の広継(藤原広嗣)という人がありました。不比等の大臣の御孫であります。式部卿の宇合(うまかい)の子ですから、品もよく高潔であり、世に用いられるようになりました。勇猛で智恵があって、さまざまなことに通じておりました。吉備(真備)大臣をを師として、文を習い、その才智から朝廷に仕え、右近の少将に任命されました。ただの人ではなかったのでしょう、午前中は王城で右近の少将として仕え、午後からは、鎮西(九州)にくだり、太宰の少弐(次官)として府の政治をおこないました。世の人はとても不思議に思っていました。家は肥前国松浦の郡(佐賀県唐津市)にありました。

このように日々を暮らしておりましたが、ある日、后が玄昉を寵愛なさっていることを聞くと、太宰府から提出する国解(報告書)に書きました。
「天皇の后が玄昉を寵愛していることは、世に悪い噂となっています。すみやかにやめるべきです」
天皇は、この申し立てをこころよく思いませんでした。
「広継が朝政を知っているはずはない。そのような者が世にあっては、やがて国に害をなす。すみやかに広継を討つべきだ」
そのころ、御手代の東人(みてしろのあずまびと)という武人がありました。勇猛な心をもち、思慮深く兵の道に通じていました。天皇はこの東人に広継追討を命じました。東人は宣旨をうけ、鎮西(九州)に下りました。

東人は九州の兵を集め、広継を攻めようとしました。広継はこれを知り、おおいに怒って言いました。
「私は国のために道をあやまったことはない。にもかかわらず今、こうして攻められている。玄昉がはかりごとをめぐらせ讒言したためだ」
軍を調え官軍と戦いましたが、広継軍はすこしずつ押されました。広継は空を駆ける竜馬を持っていました。その馬に乗っていたからこそ、午前中は王城につとめ、午後は鎮西に下り行くことができたのです。

藤原広嗣『前賢故実』より

広継は戦いましたが、勅威に勝つことができず、攻められて海辺に出ました。竜馬に乗って海に浮かび、高麗(朝鮮半島)に行こうとしましたが、竜馬は以前のように翔けることはできませんでした。
「もはや私の運は尽きた」
広継は馬とともに海に入って死にました。

東人は広継の家まで攻め寄せましたが、海に入ったのでおりませんでした。そのとき、沖の方から風が吹いて、広継の遺体が浜辺に打ち上がりました。東人はその首をとり、王城に持ち帰って公に奉りました。

広継は悪霊となりました。公を恨み、玄昉を怨み、報復しようとしました。玄昉の前に悪霊が現じました。赤い衣を着て、冠をつけた者が来て、にわかに玄昉をつかみ、空に昇りました。悪霊は玄昉を落下させ、身をばらばらに砕きました。弟子たちはそれを拾い集めて葬りました。

それでも悪霊は鎮まりませんでした。天皇はとても恐怖しました。
「吉備大臣は広継の師であろう。すみやかに彼の墓に行って、霊をなだめよ」
吉備は宣旨を受け、西に行って、広継の墓前で説得をこころみましたが、逆に鎮められそうになりました。しかし、吉備は陰陽道に通じた人でしたから、陰陽の術をもって身をまもり、さらに丁寧に言葉を尽くすと、霊はやすまりました。

霊は神となりました。鏡明神というのがそれです。玄昉の墓は奈良にあると語り伝えられています。

【原文】

巻11第6話 玄昉僧正亙唐伝法相語 第六
今昔物語集 巻11第6話 玄昉僧正亙唐伝法相語 第六 今昔、聖武天皇の御代に、玄昉と云ふ僧有けり。俗姓は阿刀の氏、大和国□□の郡の人也。幼くて□□と云ふ人に随て出家して、法の道を学ぶに、智り賢かりけり。

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柴崎陽子

藤原広嗣の乱のいきさつに焦点を当てた物語です。

本話では光明皇后が玄昉との関係を讒言されたとしていますが、じっさいにはその讒言は皇后の異母姉であり聖武天皇の母である藤原宮子との関係を訴えたものでした。

また、本話では藤原広嗣は午前中に都にあって午後に太宰府に勤めていたと語られていますが、じっさいには親族の誹謗を理由に太宰府に左遷されたようです。背景には橘諸兄・吉備真備・玄昉など反藤原氏勢力の台頭がありました。

広嗣は聖武天皇の召喚に答えず反乱を起こしました。反乱はほどなくして鎮圧されましたが、首謀者である広嗣は怨霊となったと伝えられています。
このすぐ後に聖武天皇は何度も遷都しましたが、これは広嗣の怨霊を恐れたためであると語られることも多いようです。

広嗣の怨霊を鎮めるため、佐賀県唐津市に鏡神社が創建されました。

鏡神社二ノ宮 藤原広嗣を祀る

敗れた広嗣が竜馬で高麗にわたろうとした、と語られています。彼の太宰府赴任には、緊張関係にあった新羅の大使の迎接をさせるという意味合いもあったようです。朝廷は高麗だけではなく新羅とも仲良くやることを求めました。あるいは、そこにも不満の一因があったのかもしれません。広嗣は新羅強硬論者だったと伝えられています。

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