巻11第2話 行基菩薩学仏法導人語 第二
今は昔、大日本国に行基菩薩という聖がありました。和泉の国の大鳥(大阪府堺市)の人です。誕生したとき物につつまれて生れたので、父はこれを忌み、木の枝に乗せておいたのですが、生まれたときから言葉を話したので、父母は子をとりおろして養いました。
成長して幼児になると、隣の小児や村の子どもたちとともに、仏法を讃歎する言葉を唱えるようになりました。まず、馬や牛を飼う童子たちが多く集まって、これを聞くようになりました。馬牛の主が用があって使いをやって呼ぶと、使いがこの讃歎の声を聞き、とても貴いので、涙を流してこれに聞き入りました。このようにして、多くの老若男女が集まり、行基の声を聞くようになりました。
郷の刀禰(ごうのとね、村長)がこれを聞いて言いました。
「田もたがやさず、くだらないことをしている。追い払ってやろう」
寄って聞くと、言いようもなく貴く、郷の刀禰は涙を流して聞き入るようになりました。
郡の司はこれを聞くと、大いに怒りました。
「私が行って追い払おう」
そう言って聞くのですが、限りなく貴いので、泣いてその場にとどまりました。
国の司は何度も使いをやって追い払おうとしましたが、誰も帰ってこないので、ついに怪しみながらみずから行くことになりました。行基の声はじつに恐れ多く、かぎりなく貴いものでした。
やがて噂は隣国に至り、さらに多くの人が訪れるようになりました。これを天皇に申し上げる人があり、ついに天皇が召して聞くようになりました。きわめて貴いものでした。
その後、出家して、薬師寺の僧となり、行基と名乗りました。法門を学ぶと、智恵深くさとり深く、露ほども理解しないことはありませんでした。智恵はあらゆる人に勝りました。
行基は慈悲の心深く、仏のように人をあわれみました。幾多の国々を修行して、故国に帰る途中、池のほとりを通ることがありました。人が多く集まり、魚を捕って食べていました。ある若い男が、戯れて魚の膾(なます、生魚を酢であえたもの)をさしだし、「これを食べなさい」と言いました。行基はそれを食べました。ほどなくして、行基は口からなにかを吐き出しました。見ると、膾は小魚となり、みな池に入りました。人々はこれを見て驚き怖れ、やんごとなき聖人を、軽んじあなどったことを悔いました。
このように貴く崇高な方でした。天皇はこの人を敬い、かぎりなく帰依して、大僧正に取り立てました。
そのころ、元興寺の僧で智光という人がありました。身分の高い学僧でした。智光は思いました。
「私はさとり深い老僧だが、行基は浅い小僧ではないか。朝廷はなぜ私をうやまわず、彼を賞するのだ」
朝廷をうらみ、河内国(大阪府)椙田寺(すぎたでら)に籠居しました。その後、智光は身に病を受けて死にました。(遺言によって)遺体を房に葬らずにおくと、十日を経てよみがえり、弟子たちに語りました。
「私は閻羅王(えんらおう、閻魔王)の使いに捕われて行った。道に金をもって造った宮殿があった。高く広く、光り輝いていた。『これはどういう宮殿ですか』と問うと、使いはこう答えた。
『ここは行基菩薩が生まれる場所だ』
さらに行くと、煙と炎が空に満ち、恐ろしく見えるところがあった。『あそこは何ですか』と問うと、使いは答えた。
『あれはおまえが堕ちる地獄だ』
使いによって連れてこられると、閻羅王は私を呵して言った。
『おまえは閻浮提(人間世界)日本国で、行基菩薩をねたみ憎んで謗った。今、おまえはその罪を受けるのだ』
私は熱した銅の柱を抱くことになった。肉は解け骨は融けて、堪え難いことかぎりない。私はその罪をつぐなって、今許されて帰ってきたのだ」
智光は泣き悲しみました。
その後、智光は罪を謝するため、行基菩薩の所に詣でようとしました。行基はそのころ、摂津国の難波(大阪市)の江の橋を造り、江を掘って船津(船着き場)を造っていました。行基菩薩は神通力で智光の心を知り、彼がやってきたのを見て微笑しました。智光は杖にもたれかかって礼拝恭敬し、涙を流して罪を謝しました。
(②に続く)
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 柴崎陽子
民衆への布教は禁じられていた
行基(西暦668-749)は、飛鳥・奈良時代に活躍した僧侶です。
あまり語られることはありませんが、この時代、仏教は民衆のものではありませんでした。浸透していなかったのではありません。ハッキリと「禁じられていた」のです。僧尼令という法令が発せられ、仏教は高貴な身分ある人のものと規定され、これを犯した者は朝廷に反逆する者として罰せられました。
行基はこれを破り、民衆に仏教を説くと同時に、灌漑・治水・架橋・港湾建設など、現在では公共事業とされる数々の仕事を成しました。いわば政府の許可なく人を集めて工事をおこなったわけですから、にらまれないはずはありません。行基はやがて、民衆を扇動する者として処分を受けることになります。
本話には行基が幼少の折から多くの人々を集めたことが描かれていますが、はじめに集まったのは近所の子や牧童だったことが記されています。誇張はあるにしても、これは事実に基づく記述です。
行基の社会事業の背景には、入唐して玄奘の弟子となった師・道昭の教えがあるといわれています。
聖武天皇の庇護と大仏
当初は体制に反逆する者と目されていた行基ですが、おそらくは体制側に、対峙するより利用したほうがいい、という意見が生まれてきたのでしょう。また、行基はあくまで純粋に菩薩行として社会事業をおこなっているので、体制転覆などの意志はないことが伝わったのかもしれません。
聖武天皇は彼を取り立てて大僧正とし、東大寺の大仏建立の実質的なリーダーとしました。
ここには老僧・智光がその代表として取り上げられていますが、急出世した行基に妬心を抱く僧は多かったことでしょう。
なお、ここには行基が薬師寺で出家したと記されていますが、学んだことはあるものの、薬師寺に至るころにはすでに出家していました。
当時の僧侶は肉食を禁じられており、魚肉も同様でした。魚のエピソードはこれを背景にして描かれたものです。
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