巻6第9話 不空三蔵誦仁王呪現験語 第九
今は昔、不空三蔵は南天竺の人です。幼少の折、金剛智に随って、天竺から震旦に渡り、震旦で出家し、金剛智に瑜伽無上秘密の教(密教)を受け、世に弘め、衆生を利益しました。ときの震旦の国王、唐の玄宗皇帝は不空を敬い、国の師としました。
天宝元年(西暦742年)壬子(みずのえね)の年、西蕃(西域)の大国・石国・康国など五つの国の軍が来て、安西城を攻めました。その年の二月十一日に、彼の城から連絡がありました。
「大・石・康など五国の軍がこの城に攻め入っています。救援の軍隊を派遣してください。彼らをおさえたいと思います」
玄宗皇帝はこれを聞いて驚き、宣旨を下して、軍を出発させました。その数、二万人余でした。
救援の軍は何日か後に、安西城に近づきました。そのとき一人の大臣が皇帝に申し上げました。
「不空三蔵を招来し、このことを伝えるとよいでしょう」
玄宗は三蔵を宮内に請じ入れ、みずから香炉をとって持念して、三蔵に言いました。
「願わくは大師よ、毘沙門天(武神)を請じ奉り、この難を救ってください」
三蔵は仁王護国経の陀羅尼(だらに、呪文)二七遍を誦しました。
その後、玄宗は気高くいかめしい人を見ました。その数、五百人(「とても多い」という意味)ほど、甲冑を着て、鉾をもち、宮殿の前にひかえました。玄宗はこれを見て不空に問いました。
「この人たちはいったい誰だ」
不空は答えました。
「これは毘沙門天の第二の子、独健(どくこん)が多くの兵を随えて、陛下に力添えをするために現れたのです。彼らは安西城に赴き、その難を救うために現れました。すぐに食事を用意して、供してください」
四月になり、安西城より報告がありました。
「二月十一日より後のことです。城の東北三十里(約120キロメートル)以内に雲霧がたちこめ、暗くなりました。その中に、多くの人がありました。身長は一丈(約3メートル)あまり、金の甲冑をつけていました。彼らは酉時(午後六時)になると、鼓を打ち、角笛を吹きました。その音は、三百里あまりをふるわせ、地は動き山に響きました。それが二日つづきました。このことで、大・石・康など五国の軍は逃げ散りました。また、敵国の帳幕の内に、金色の鼠があらわれ、弓の弦を食い切り、武器をことごとく使用不能にしてしまいました。そのとき、楼上に光明がありました。人々がこれを見ると、毘沙門天があらわれていました。城内の者でこれを見なかった者はありません。この毘沙門天の形を絵にうつし、皇帝に献上いたします」
皇帝はこれを聞いて、かぎりなく喜びました。宣旨を下し、道の辻や州府の城の西北の角に、毘沙門天像を安置し、供養させました。また、多くの寺に勅して、
「寺院ごとに毘沙門天の像を安置し、月の一日には香華と飲食を捧げ、歌舞をおこなって、供養するように」と伝えました。これは競うように実行されました。
城の門に毘沙門天を安置し奉ることは、ここからはじまったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 西村由紀子
本話では不空の出生地は南インドと語られているが、ほかにもスリランカ(セイロン)、サマルカンドなど諸説ある。金剛智の弟子となったのは間違いないが、それがどこだったのか、いつだったのかも判然としない。ジャワで出家した説もあり、グローバルに活動した人であることはまちがいないようだ。
金剛智が没した後、不空は長安からインドに入り『金剛頂経』(密教の根本経典のひとつ)を得た。金剛頂経はもちろんのこと、密教の重要な経論の多くは不空訳となっている。
毘沙門天(四天王のひとりであるときは多聞天と呼ばれる)が武神として語られたのは中国においてのことのようで、インドではその性格は薄かった。
本話に語られたのは安西城毘沙門伝説と呼ばれるもので、不空訳とされる『毘沙門儀軌』に説かれている。かつて平安京の羅城門に安置されていたとされる「兜跋毘沙門天像」はこの話に基づいた造像だ。現在は京都の東寺にある。
本話で金の鼠があらわれているのは中国の民間伝承にもとづくものとの説が有力だ。
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