巻17第46話 王衆女仕吉祥天女得富語 第四十六
今は昔、聖武天皇の御代に、二十三人の王衆(王族)がありました。順に食事をふるまい、宴を催すことが決まりました。
二十三人の中に、一人の女王がありました。とても貧しく、みなに食事をふるまう力はありませんでした。二十二人の王衆は、順番に食をふるまい、宴の楽をなしました。女王の番になりましたが、彼女は宴の準備をすることができません。女王はみずからが貧しさの報いを受けていることを恥じ、奈良の左京、服部の堂に詣で、吉祥天女の像に向かい、泣く泣く申し上げました。
「私は前世に貧窮の種を植えたために、今生に貧しき報を受けています。しかし、私は二十三人の王衆と約を結び、順に宴を催すことになっています。私は二十三人の中に入っていますが、みなに食をふるまうことができません。いたずらに人がふるまってくれた物を食べながら、饌(食膳のしたく)ができずにいるのです。願わくは、私を哀れみ、食膳のしたくができる財を授けてください」
そのとき、女王の息子が走ってきて伝えました。
「古京(飛鳥)よりたくさんの食がとどけられています」
女王はこれを聞くと急いで家に駆け戻りました。乳母が来ていました。
「お客があると聞いたものですから、食膳をととのえて持って参りました」
女王はこれを聞いて、かぎりなく喜びました。飲食の味わいは素晴らしいものでした。また、飲食を盛った器は皆鋺(かなまり、金属製の器。当時はきわめて高価だった)であり、三十八人の使用人に持たせていました。女王はこれを見て、喜んで王衆を呼びました。すぐにみながやってきて、これを食べました。それまでのどんな食事にも勝るものでした。
王衆は喜び、これをほめ、みな飽きるほど食べて呑みました。女王は「富王」と呼ばれました。王衆は舞い歌い遊び戯れ、あるいは衣や裳を脱いで与え、あるいは銭・絹・布などをふるまいました。女王はこれを喜んで受けました。
「これはすべて乳母の徳だ」
そう思ったので、得た衣裳はすべて乳母に与えました。乳母はそれを受けて帰っていきました。
その後、女王が「あの服部の堂に詣でて、吉祥天女に礼しよう」と考え、詣でて見ると、天女の像はあの乳母に与えた衣裳をまとっていました。これを見ておかしいなと思い、人をやって乳母にたずねてみると、乳母は飲食など送っていないと答えました。
女王は涙を流して、泣きながら思いました。
「天女が私を助け、授けてくださったのだ」
いよいよ心を至して、天女に仕えました。その後、女王は、大きく富んで、宝にめぐまれ、貧窮の愁いはまったくありませんでした。
「不思議なこともあるものだ」
この話を聞いた人は、みな讃め貴んだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
日本霊異記にある話。
文中にある「奈良の左京、服部の堂」とは、奈良にあったと伝えられる福寺ではないかと考えられている。福寺とは服寺だ。
ひとりが宴を開き、それが順にめぐっていくスタイルは奈良時代の貴族の慣習と『新日本古典文学大系 36 今昔物語集 4』(岩波書店)の解説にある。
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