巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一
(③より続く)
太子の妃は柏手氏の方でした。太子は妃におっしゃいました。
「おまえは私にしたがってきて、年来ひとつも誤ることがなかった。とても幸福なことだ。もし死んだなら、同じ穴に入ろう(偕老同穴)」
妃は答えました。
「万歳千秋の間、朝暮にお仕えすることだけを考えてきました。どうして今日だけ、臨終のときのことをお話しになるのですか」
「ものごとにはかならず初めがあり、終わりがある。生じたら死す、これが人の常の道である。私はかつて、多くの身を受けて、仏道を勤行してきた。今、小国の太子として生まれ、妙なる義を弘め、法なき所に一乗の理(法華経の教理)をもたらすことができた」
妃はこの言葉を涙を流して聞きました。
ある日、太子が、黒駒に騎乗し、難波の宮を出ました。片岡山のあたりで、飢えて倒れている人があり、黒駒は歩みをとめました。太子は馬からおりて、この飢えた人の話を聞き、着ていた紫の衣を脱ぎ、歌とともに与えました。
してたるや かたをかやまに いひにうゑて ふせるたびびと あわれおやなし
(片岡山に飢えて倒れている旅人がある。あわれにも親もない)
飢えた人は、頭を持ち上げ、返歌を奉りました。
いかるがや たびのをがはの たえばこそ わがをほきみの みなはわすれめ
(斑鳩から流れ出る富雄川の水が絶えることがあっても、太子の名を忘れることはないだろう)
太子が宮に戻ると、この人は死にました。太子は悲しみ、これを葬らせました。
そのときの大臣など、これをこころよく思わず批判する人が七人ありました。太子はこの七人に言いました。
「片岡山に行って見てみなさい」
行って見ると、棺の内に死体はなく、かぐわしい香りがしました。みなが驚き、不思議がりました。
太子は鵤(斑鳩)の宮にいらっしゃるとき、妃に語りました。
「私は今夜、世を去る」
沐浴し洗頭し、浄き衣を着て、妃と床をならべてお休みになりました。翌朝、太子は起きてこられませんでした。人々は怪しんで、大殿の戸を開いてみると、妃とともに亡くなっていました。その顔はまるで生きているようで、かぐわしい香りが漂っていました。四十九歳でした。愛馬の黒駒も、いなないて水・草を飲食せず、死にました。その骸も埋葬されました。
太子がお亡くなりになった日、衡山より持ち帰られた一巻の経がなくなっていました。おそらく持っていかれたのでしょう。今は妹子が持ってきた経だけがあります。新羅(朝鮮半島の国)からもたらされた釈迦如来の像は、興福寺の東金堂にあります。百済国(朝鮮半島の国)からもたらされた弥勒の石像は、奈良の元興寺の東にあります。太子がつくられた自筆の法華経の注釈書(法華義疏)は、今は鵤(斑鳩)寺(法隆寺)にあります。また、太子が使っていた道具などもその寺にあり、多くの年をかさねましたが、損じていません。
太子には三つの名がありました。ひとつは厩戸の皇子。厩の戸辺で生まれたからです。
もうひとつは八耳の皇子。数人が一度に言うことを聞いて、一言も聞きもらさず答えたからです。三は聖徳太子。教を弘め、人を度した(助けた)からです。上宮太子とも呼ばれました。推古天皇が太子を王宮の南に住ませ、国政を任せていたからです。
本朝の仏法は、太子の御世からはじまります。今、仏法を学ぶことができるのは、太子が弘めたからです。心ある人は、必ず太子を奉じるべきです。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
片岡山伝説、または飢人伝説と呼ばれる伝説で、『日本書紀』にも記載があるという。わが国の太子信仰のひとつの形を示したものだそうだ。
R指定の聖徳太子ラップはすげえぜ?
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