巻11第29話 天智天皇建志賀寺語 第廿九
今は昔、天智天皇が近江の国志賀郡(滋賀県大津市)粟津の宮(近江大津宮)にいらっしゃったとき、寺を建てる願を立てました。「建てるべき地をお示しください」と祈り願った夜の夢に、僧があらわれて告げました。
「戌亥の方(北西)によいところがある。すみやかに出て、見るとよい」
夢から覚めて見ると、戌亥の方に光がありました。
翌朝、使いをやってそのあたりを探させました。使いは光る山を探して歩むうちに、志賀郡の篠波山の麓に至りました。谷にそって深く入ってみると、高い崖がありました。崖の下に深い洞窟があります。洞窟の入り口から中をのぞき見ると、帽子をかぶった年老いた翁がありました。その姿はまことに異様でした。世の人に似ず、目つきが賢そうで、とても気高く感じられました。翁に近づいて問いました。
「あなたは誰ですか。なぜここにいるのですか。天皇がこのあたりに光を見られて、探してくるように宣旨を承って来ました」
翁はまったく答えませんでした。「何者だろう」とは思いましたが、しつこく問うのは気が引けて、帰って事の次第を天皇に伝えました。天皇はこれをお聞きになって、驚き怪しみおっしゃいました。
「朕がみずから行幸して問おう」
御輿を洞窟の近くに寄せさせ、降りられて入り口近くまでいらっしゃると、翁がおりました。天皇を目前にしても、まったく恐れ畏る様子はありません。錦の帽子をかぶり、薄紫色の直衣を着ていました。神々しく気高く感じられました。天皇は近くにお寄りになって問いました。
「あなたは誰ですか」
翁は袖を少しかき合わせ、少しさがって申しました。
「いにしえの仙です。ささなみや長柄の山になむ(「ささなみや」は長柄にかかる枕詞)」
かき消えるようにいなくなりました。天皇は宣いました。
「翁は言葉を残して消えてしまった。ここはやんごとなき霊所である。ここに寺を建てよう」
そう宣して、宮にお帰りになりました。
明くる年の正月、大きな寺の建造をはじめられ、丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の弥勒の像を安置されました。供養の日、灯廬殿において、天皇はみずから右の名無し指(薬指)をもって御灯明をともされ、その指を切り落として石の筥(箱)に入れ、灯楼の下に埋めました。灯をささげて、弥勒に奉する志をあらわしたものです。
この寺を造るとき、地中から三尺(約90センチ)ばかりの小さな宝塔が掘り出されました。それは見たこともない形をしていました。昔、阿育王(アショーカ王)が八万四千の(大量の)塔を建てましたが、そのひとつであることがわかり、いよいよ誓を発し、指を切って埋めさせました。

供養の後、天平勝宝八年(756年)二月十五日、参議正四位下、兼兵部卿、橘朝臣奈良麻呂という人が伝法会という行事をはじめて行いました。これは、華厳経をはじめとした、大小乗の経・律・論・章・疏(仏典)の講義をおこなうものです。科料として、水田二十町(約20ヘクタール)が寄進されました。行事は末永く続けられることになり、今も橘氏の人が参り、おこなっています。
ところが、かの御指の験があったといって、少々穢らわしい輩を谷に投げ棄てたことがありました。そのために人々の参詣がむずかしくなりました。何という名の僧でしたでしょうか、別当がこの寺を治めはじめました。
「この寺は参詣がなく閑散としている。これはあの御指がすることなのだ。すみやかにこれを掘り出し、棄てよう」
御指を掘らせると、たちまちに雷が鳴り響き、大雨が降り、風が吹き荒れました。別当はいよいよ腹を立て、御指を掘り出させました。見ると、たった今切り落としたように、白く輝き、鮮やかでした。
程なくして、御指は水となって流れ、消えてしまいました。その後、別当の僧は物狂いとなって死にました。寺の験は失われました。
「馬鹿げた政をしたものだ」といって、別当は死して後も、世の人に憎まれることになりました。崇福寺とはこの寺であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
法華経の薬王菩薩本事品(品は章という意味)には、薬王菩薩の前世、喜見菩薩の行として、指に灯をともし宝塔を供養したエピソードが紹介されている。ここで語られた天智天皇のおこないはそれに習ったものだ。
やくざの指つめの仏教版だが、落とす指が違う。調べてみようと思いました。
大津の崇福寺址には岩窟があり、この説話に語られた洞窟を想起させる。



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