巻17第30話 下野国僧依地蔵助知死期語 第三十
今は昔、下野国(栃木県)に薬師寺という寺がありました。戒壇(解説参照)の置かれた寺で、とてもありがたい寺でした。その寺に一人の堂童子の僧があり、名を蔵縁と申しました。その僧はずっと地蔵菩薩に仕え続け、昼も夜も寝ても覚めても念じ奉り、他の勤めをすることはありませんでした。
蔵縁が三十歳を迎えたころから、家が豊かに成りはじめました。縁を得て子を儲け、一家は繁栄しました。親族の協力を得て、堂をつくりました。仏師に頼み、等身大の地蔵菩薩像を一体つくり、堂に安置して、常に香・花・灯明を奉り、日夜怠ることはありませんでした。毎月二十四日(地蔵の縁日)に多くの僧を集め、施しをして、仏事を営みました。その夜には地蔵講を行いました。近隣の人は道俗ともに、みな集まって聴聞し、終夜礼拝しました。
蔵縁は常に言っていました。
「私は必ず、二十四日に極楽往生する」
これを聞いた者は、あるいは讃め貴び、あるいは謗り嘲哢しました。
やがて、蔵縁は九十歳になりました。しかし、顔色は若い人のようでしたし、行歩は衰えず、力も満ちていました。ねんごろに礼拝苦行していたため、衰えることがなかったのでしょう。この話を聞いた人はとても不思議に思いました。
延喜二年(西暦902年)の八月二十四日に、蔵縁は多くの膳を用意して、遠近の知っている男女を集め、飯食をふるまい饗応しました。
「蔵縁があなたたちに対面するのは、これが最後になる」
集まった人のある人は、いつも言っているようなことを言っていると思いました。ある人はこの言を真摯に受けとめ、涙を流しました。会が終わると、みな家に帰りました。
その後、蔵縁は、かの地蔵堂に入って死にました。人はこのことを知りませんでした。翌朝、堂の戸を開けてみると、仏の御前で蔵縁が掌を合せて額に当て、座りながら死んでいました。発見した人は驚いて、多くの人に告げました。人々はやってきてこれを見て、涙を流して悲しみ、貴ばないことはありませんでした。
まことに、言に違はず、二十四日に仏の御前に端坐して死んだのです。
「疑いなき往生人である」
人々はそう言いました。ひたすら地蔵堂を長く念じていた力だと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
戒壇とは戒律を授ける(授戒する)ための場所を指す。ここで戒を受けた者だけが正式な僧とみなされる。僧は税を免じられていたので、「僧のふりをする」不心得者を出さないためにも、絶対に必要な儀式であった。鑑真がもたらしたといわれる。
奈良時代、戒壇は本話の舞台となる下野薬師寺、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺だけに設けられていた。これらは「三戒壇」と総称された。
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