巻17第41話 僧真遠依普賢助遁難語 第四十一
今は昔、比叡の山の西塔に真遠という僧がありました。参河(みかわ、愛知県)の人です。幼いうちに生国を去り、比叡山に登って出家して、受戒した後、師にしたがって法華経を学び、昼夜に読誦するうちに、暗唱できるようになりました。
きわめて口が早く、人が一巻誦する間に、二、三部(法華経全八巻を一部という)を誦してしまいました。一日に三十四部を誦していました。また、真言の秘法を習得し、これを毎日行いました。三業(身・口・意)を保ち、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意、六感)を犯すことはありませんでした。
成人してから思いました。
「比叡山を下り、生国に帰ろう。先祖が建てた堂に籠り、静かに来世のための修行をしよう」
ある日、用があって馬に乗り、里に出かけることがありました。途上でその国の国司が館を出るところに出会いました。
守は真遠が馬から降りないことをとがめました。人に命じて真遠を馬からひきずり下ろし、打ちました。さらに真遠を召し、恥かしめて言いました。
「おまえは何様だ。国の内の貴賤の僧俗は、みな国司に随うべきだ。なのに、おまえはなぜ、馬に乗ったまま私と顔を合わせるなどという無礼を働くのだ」
おおいに怒り、真遠を馬の前に追い立てて、館につれていき、厩(うまや)に閉じ込めて、従者に命じて折檻させました。真遠はみずからの果報がつたない(不幸に出会うのは前世の因果)ことを思い、心をつくして法華経を誦しました。
その夜、守は夢をみました。普賢菩薩の像を白象に乗せ、厩に閉じ込めていました。他の普賢菩薩があらわれ、これも白象に乗り、光を放ち、捕らえられ監禁された普賢菩薩に会うため奥に向かいました。
守はめざめると驚き恐れ、夜中というのに家来を呼び、僧を解放しました。
翌日、僧を呼び、浄い畳にすわらせて、問いました。
「聖人よ、あなたはどのような勤めをする人なのですか」
「私は特別なことをしているわけではありません。ただ年少のころから法華経を持(たも)ち、昼夜に読誦しているだけです」
守はこれを聞き、いよいよ驚き歎きました。
「私はあさましい凡夫でした。つたなく愚かでした。聖人の徳行を知らずに、悩まし煩らわしてしまいました。願わくは、この咎(とが、罪)を免してください」
夢のことを語り、それ以降は深く帰依して、館に招き入れ、日々の食事の世話をし、衣服を与え、丁寧に供養しました。国の人はこれを伝え聞き、貴び敬しました。
たとえ重い咎があったとしても、僧を拷問にかけてはならないと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
法華経持経者の伝記と経の不思議な力について述べた『法華験記』より得た話。熱心な法華経信者だった宮沢賢治がこの話を知らなかったとは考えにくい。『オツベルと象』はここから得たものだろう。
【協力】ゆかり
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