巻24第52話 大江匡衡和琴読和歌語
今は昔、式部大夫(しきぶのたいふ・式部省の次官)大江匡衡(おおえのまさひら)という人がいました。
まだ学生(がくしょう)であったころ、風雅の才はあったのですが、のっぽで怒り肩をしており、容姿が見苦しかったので、女房たちに笑われていました。
あるとき、女房たちが匡衡を呼んで和琴(わごん・桐胴の六弦琴で東琴ともいう)を差し出し、「あなたは何事でも知らないことのないお方ですから、ひとつこれを弾いてくださいませんか。どうぞ、お弾きあそばせ。お聞かせくださいな」と言うので、匡衡はそれには答えず、このように詠みかけました。
あふさかの 関のあなたも まだみねば
あずまのことも しられざりけり
(逢坂の関の向こうはまだ見たこともないので、東(あずま)のことは何もわかりません。和琴(あずまごと)は不重宝です)
女房たちに、これの返歌はとうてい出来そうになかったので、よう笑いもせず、しんと静まって、一人立ち二人立ちし、皆立って行ってしまいました。
また、この匡衡がある官職の希望を申し出たとき、達せられないで嘆いているころ、殿上人が大勢で大井川へ行き、船に乗って上り下りして遊びながら歌を詠んだのですが、この匡衡も人びとに誘われて同行し、こう詠みました。
河舟に のりて心の ゆくときは
しずめる身とも おもはざりけり
(川舟に乗り、美しい景色を愛でつつ遊びながら行くと、心ゆく思いがして、任官できない不満など、消し飛んでしまうような気がすることだ)
人びとは、これをほめ讃えました。
また、この匡衡は、実方朝臣(さねかたのあそん)が陸奥守(むつのかみ・奥州の国司)になって任国へ下っているとき、こう詠んで送りました。
都には たれをか君は 思ひつる
みやこの人は きみをこふめり
(都にいる人で、あなたは誰を思い出しますか。都の人は誰もみな、あなたを恋しく思っているのですよ)
実方朝臣はこれを見て、きっと返歌を寄越したことでありましょう。
しかし、それは語り伝えていません。
この匡衡は、漢詩文の道を究めた人でありましたが、また和歌をこのようにすばらしく詠んだ――とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
大江匡衡について
一条朝の文人の第一人者、大江匡衡の和歌3首をあげて、その歌が詠まれた際の事情と匡衡の歌才を伝える話。
3首めの実方の返歌は、「忘られぬ 人のうちには 忘れぬを 待つらむ人の うちに待つやは」
大江匡衡(おおえのまさひら・952-1012)は、円融・花山・一条・三条の四代の天皇に仕えた文人官僚。大江氏は菅原氏と並ぶ学問の家柄で、匡衡も大学寮に入って紀伝道を学び、文章生になったのち、学者の登竜門で難関といわれる対策(方略試)に合格している。
東宮学士や文章学士を経て、正四位下・式部大輔(式部省の次官)となる。
藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、彼らの願文・上奏などの文章を代作した。
地方官としては良吏で、国司となった尾張では、学校院を設立するなど、善政を行った。
妻の赤染衛門とは、おしどり夫婦で、『匡衡衛門』と呼ばれた。
儒者として有能であっただけでなく、漢詩・和歌ともに堪能で、本話はそのうちの和歌に関する逸話である。
『尾張国郡司百姓等解』
『解(げ)』とは、律令制で八省以下内外の諸官、つまり京官・地方官が太政官および所管に上申する公文書のことで、『解文(げぶみ)』とも言う。
『尾張国解文(おわりのくにのげぶみ)』もしくは、『尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)』は、永延2年(988)に尾張国の郡司と田堵負名と呼ばれる有力農民が国司である藤原元命(ふじわらのもとなが)の苛政を朝廷へ訴え出たもの。
10世紀末から11世紀前半は、国司の筆頭官である受領に権力が集中し、赴任した受領国司が一国を私領のようにしてしまい、在地の人びと・郡司や田堵負名らが上京し、陽明門において国司の暴政を朝廷に訴える――これを国司苛政上訴というのだが――が頻発した。
同じような国司苛政上訴が多くあったが、訴状の全文が伝わっているのは、『尾張国郡司百姓等解』だけである。
尾張国については、天慶2年(939)に尾張国司が襲撃され、天延2年(974)には国人の訴えにより、国司・藤原連貞が解任されている。永延2年(988)の元命の件の後にも、寛弘5年(1008)、長和5年(1016)に尾張の国人は上訴を行っている。
『解文』によって訴えられた元命は、翌年の永祚元年(989)2月5日の朝議でこの問題が審議され、4月の除目で役目を停止された。しかし、代わりに任じられた藤原文信が4月の除目の前日に、前任地の九州で家族を殺されたという男から襲撃を受け、重傷を負う事件も発生したのだった。
『今昔物語集』には、このような受領国司の苛酷さ、残忍さ、欲深さを語った説話が数多くある。(巻28第38話など)
尾張においては訴訟で済んだが、関東では国司と住人の軋轢は、平将門の乱(巻25第1話)、平忠常の乱(巻25第9話)などの戦乱にまでなっている。
元命が解任された12年後に尾張の国司となった大江匡衡は、心を砕き、長保4年(1002)に熱田社に、「来年、農業が豊作で作田が四、五千町になり、養蚕が順調で絹が一、二万疋とれ、旱魃洪水などがなかったら、大般若経を奉納したい」という祭文を奉じた。(熱田社本宮の本地は、大日如来)
願いは聞き届けられたのか、翌々年10月に熱田社で大般若経供養を行っている。
〈『今昔物語集』関連説話〉
受領について:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『日本の歴史 第06巻 道長と宮廷社会』大津透著、講談社
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