巻二十四第二十五話 三善清行と紀長谷雄の口論

巻二十四(全)

巻24第25話 三善清行宰相与紀長谷雄口論語 第廿五

今は昔、醍醐天皇の御代に、参議(さんぎ・唐名は宰相。朝議に参加する公卿)三善清行(みよしのきよつら)という人がいました。
その当時、中納言・紀長谷雄(きのはせお)は文章得業生(もんじょうとくごうしょう・別名、秀才。文章道の成績優秀者)でありましたが、清行宰相とささいなことで口論になりました。
清行宰相が長谷雄に対し、
「無学の博士など、古今を通じて聞いたこともない。思うに、そなたが初めだろう」
と言います。
長谷雄はこれを聞いて、ひと言の言い返しもしませんでした。

これを聞いた人が思うに、「あれほど優れた学者である長谷雄を、あのように言ったとは、清行宰相は言語に絶する人物なのだ」と褒め、感じ入りました。
ましてや、長谷雄が言い返しもできなかったのだから、それを当然のことと思ったのでありましょうか。

またそのころ、[惟宗(これむねの)]孝言(たかとき)という大外記(だいげき・太政官の職員)がいました。
優れた学者であります。
その口論のことを聞いて言うには、
「竜同士の咬み合いは、たとえ一方が咬み伏せられたにせよ、弱いとはいえない。というのは、他の獣は竜のそばには寄りつけもしないからだ」
と述べました。
これは、「長谷雄が清行宰相にこそ、あのように言われもしようが、他の学者連中は足元にも及ばない」という意味なのでありましょう。
これを聞いた人は、
「まさにその通りだ」
と言いました。
それゆえ、長谷雄は本当に優れた博士ではありますが、やはり清行宰相には劣っていたのでしょう。

その後、長谷雄は中納言まで出世しましたが、たまたま大納言に欠員ができたので、これを望み、長谷寺に参詣して本尊の十一面観音にお祈り申し上げたその夜の夢で、観音が、
「そなたは詩文の道に達した人物であるから、他国に遣わそうと思う」
とおっしゃる夢を見て、目がさめました。
「これは、どういう意味のお告げであろうか」と、いぶかしく思いながら、京に帰りました。

長谷寺(奈良県桜井市)十一面観音立像

その後、長谷雄中納言は、さほど経たずに、死にました。
そこで、
「夢のお告げのように他の国(冥途)に生まれたのだろう」
と、人びとは推察しました。
世間で、紀中納言(きのちゅうなごん)というのは、この人のことであります。

かの清行宰相は醍醐天皇の御代の人でありますから、長谷雄より先に亡くなりました。
三善宰相(みよしのさいしょう)というのは、この人のことである、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻24第25話 三善清行宰相与紀長谷雄口論語 第廿五
今昔物語集 巻24第25話 三善清行宰相与紀長谷雄口論語 第廿五 今昔、延喜の御時に、参議三善清行と云ふ人有り。其の時に、紀長谷雄の中納言、秀才にて有けるに、清行の宰相と聊に口論有けり。清行の宰相、長谷雄を云く、「無才の博士は、古より今に至まで世に無し。但し、和主の時に始まる也」と。長谷雄、此れを聞くと云へども、更...

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

三善清行(847-918)は、平安初期の漢学者で、大学頭から参議宮内卿に至り、善相公と呼ばれた。『延喜格式』の編纂に参加し、演技4年(914)、地方政治の弛緩を論じた『意見封事十二箇条』を醍醐天皇に提出した。

紀長谷雄(845-912)は、文章博士・大学頭を経て、参議、中納言。醍醐天皇の侍読を務めた。都良香(みやこのよしか)や菅原道真に師事し、漢詩文にすぐれ、延喜格の編纂に加わり、詔勅、外交文書等の起草に当たった。

共に、当時の優れた学者である。

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

 

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