巻24第27話 大江朝綱家尼直詩読語
今は昔、村上天皇の御代に、大江朝綱(おおえのあさつな)という文章博士がいました。
たいへん優れた学者であります。
長年、文章道をもって朝廷に仕え、少しも心もとない点がなく、ついに宰相(さいしょう・参議の唐名)にまでなって齢七十余りで世を去りました。
その朝綱の家は二条京極にあったので、東の河原をはるかに見渡せ、月が美しく眺められたのでした。
さて、朝綱が亡くなったのち、相当年月が経ちました。
ある年の八月十五日の夜、満月がこうこうと輝いているところへ、漢詩文を好む連中が十余人、やって来ました。
この月を眺めるために、
「どうだ、月見に故朝綱の二条の家に行ってみようではないか」
と言って、出かけてきました。
その家を見ると、すでに古び荒れ果てて、人の気配もありません。
屋敷はどれもみな倒れ傾き、ただ竈屋(かまどや・炊事場)だけが昔のままに残っていました。
そこで人びとは、この壊れた縁側に居並んで月に興じ、詩句を詠じていました。
いさごを踏み、練り絹をかつぎて清秋に立つ
月は長安の百尺の楼にのぼれり
(書き下し)
(河岸の白砂を踏み、練帛(ねりぎぬ)を肩にかけて清明の秋気に立てば、名月は中天高く長安城の高楼の上にかかっている)
この詩は昔、唐の[白楽天]という人が、八月の十五日の月を愛でて作った詩であります。
これをこの人びとが朗詠し、また故朝綱が詩文に長じていたことなどを語り合っていると、北東の方から尼が一人現れてきて、問いかけます。
「ここに来て、詩を吟じておられるのは、どなたでいらっしゃいますか」
そこで、
「月を見に来たのだ。それにしても、そなたはどういう尼か」
と、答えますと、尼が言います。
「故宰相殿にお仕えしておりました者で、今まで残っているのは、この尼一人だけでございます。このお屋敷にお仕えする者は男女合わせてずいぶんたくさんおりましたが、今ではみな死に絶えて、わたくし一人今日明日とも知れぬ命を長らえているのでございます」と。
詩文を好む人たちは、この言葉を聞いて哀れに思い、尼の心根に感じて、なかには涙を流す者もいました。
やがて尼が言うには、
「あなた様方は、『月は長安の百尺の楼にのぼれり』と詠じなさいましたね。昔、故宰相殿は、『月によりて百尺の楼にのぼる』と詠じなさいましたよ。あなた様方のこの詩のよみ方は、故宰相殿のよみ方に似ておりません。月はどうして楼にのぼることがございましょう。人が月を見るために楼にのぼるのですよ」
人びとはこれを聞き、涙を流して尼の言葉に感じ入りました。
「いったいそなたは、以前はどういう者であったのか」
と尋ねると、尼は、
「わたくしは、故宰相どののお屋敷で洗い張りや裁ち縫いをいたしておりました。それで、いつもご主人様の詠ずるお声を聞いておりましたので、あなた様方が詠じなさったときに、なんとなく思い出したのでございます」
と答えました。
そこで人びとは、よもすがらこの尼と語り合い、めいめい尼に引き出物を授けて、夜明けに帰って行きました。
これを思うと、朝綱の家風は一段と立派に思われます。
いやしい下仕えの女さえ、この通りです。
まして、朝綱の文才は想像に余りある、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
大江朝綱は、平安中期の学者で、中国古典に精通し、村上天皇の勅命により『新国史』を撰進。民部大輔・文章博士・左大弁を歴任し、参議まで上った。最終官位は、正四位下。天徳元年(957)12月28日没。72歳。
本話は、朝綱の家の下仕えまで詩文を解したことから、彼の家の文雅の風をしのび、また生前の朝綱の詩才を改めて知ったという話。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
【協力】株式会社TENTO・草野真一
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