巻二十四第二十二話 算術の不思議の話

巻二十四

巻24第22話 俊平入道弟習算術語 第廿二

今は昔、丹後前司(たんごのぜんじ・現在の京都府北部、丹後国の前の国司)高階俊平朝臣(たかしなのとしひらのあそん)という者がいました。
のちには法師になり、丹後入道と称していました。
その弟に、官職に就かず、気ままに暮らしていた男がいました。名を□□。

この男が、太宰帥(だざいのそち・大宰府の長官)閑院実成(かんいんのさねなり)の供をして、九州へ下っているとき、近く渡来した唐人で、算道(さんどう)の名人がいました。
その唐人に会って、□□が、
「算の置き方を習いたい」
と申し入れると、唐人は初め、相手にせず、全然教えようともしませんでしたが、ためしに算を置かせてみて、
「おまえさんは、算の達人になる素質が十分ある。だが、日本にいてはどうしようもなかろう。日本は、算道では重用されず、だめな所のようだ。だから、『わしと一緒に宋に渡る』と言うならば、すぐに教えてあげよう」
と言ったので、□□は、
「よく教わって、この道の達人になれるのなら、あなたのお言葉に従いましょう。宋に渡って、立身出世ができるなら、日本にいても、しょうがありません。仰せの通り一緒に渡りましょう」
と、言葉たくみに返事をしました。
唐人はその言葉に引かれて、親身になって算を教えたところ、一を聞いて十を知るという具合になり、唐人も、
「わしの国には算を置く者は多いが、おまえさんほど、この道に達した者はいない。だから、ぜひともわしと一緒に宋に渡りなさい」
と、勧めます。
□□も、
「もちろんのこと。お言葉通りにいたします」
と、言いました。

唐人はさらに、
「この算の術には、病人において治す術もある。また、病気でない者でも、『妬ましい』『憎たらしい』と思う者を、算をおいて、たちどころに殺すという術もある。どんなことでも、この算の術で出来ないことはない。だから、こういうことをすべて少しも惜しみ隠さず、みなおまえさんに教えてあげよう」
と言い、
「それについて、あらためて『わしと一緒に宋へ渡る』と誓言を立てなさい」
と言うので、□□は本気で渡ろうとは思わなかったのですが、この術を習得したいばかりに、ほんの少し誓言を立てました。
けれどもなお、唐人は、
「算をおいて人を殺す術は、宋に渡るときの船の中で教えよう」
と言って、教えようとせず、それ以外のことは、よく教えました。

こうしているうち、太宰帥が安楽寺の訴訟事件(藤原実成が長元9年3月の曲水の宴で安楽寺側と闘乱に及んだため、安楽寺が愁訴した事件)により、急に公務で上京することになり、その供をして上京しようとしました。
唐人は強く止めましたが、
「長年のご主人に、かようなことが生じて急に上京なさるというのに、どうしてお供もせず、残ることができましょう。『あなたとのお約束を守って破るまい』と思う私の心は、『我が主人がこのように大騒ぎして上京なさるのを送ろう』という私の誠意によって、十分お分かりいただけると思います」
と言って[なだめ]ると、唐人も、「なるほど、もっともだ」とも思い、
「では、必ず帰って来てください。今日明日にでも宋に渡ろうと思っていたが、おまえさんが帰って来るのを待って、一緒に渡るようにしよう」
と言ったので、堅い約束をして□□は太宰帥の供をして京へ上りました。

世の中が思うにまかせないときには、「いっそ宋に渡ってしまおうか」と思いましたが、京に上ると、知人たちに止められ、兄の俊平入道も強く止めるので、九州へさえも行かなくなりました。

かの唐人は、しばらくは待っていましたが、何の音沙汰もないので、わざわざ使いを立てての手紙で恨み言を言ってきましたが、
「年老いた親が今日明日とも知れぬ様子なので、それを見届けた上で参ります」
と返事をしたまま、行かずじまいになりました。
唐人は、しばらくの間こそ待っていましたが、帰って来ないので、「さては、だましたな」と思い、よくよく呪いをかけて、宋へ帰って行きました。

□□は、初めのうちはじつに賢い男でありましたが、唐人に呪われてからというもの、すっかりぼんやりとして、頭がほうけてしまいました。
そこで世渡りもままならず、法師になりました。
入道君(にゅうどうのきみ)と呼ばれ、何のとりえもない呆け者として、兄の俊平入道の家と山寺の間を行き来して、日を過ごしていました。

ある夜、俊平入道の家で、女房たちが大勢集まり、夜明かしの庚申待ちをしていました。
入道君は、ぼんやりと片隅に座っていましたが、夜が更けるにつれて女房たちが眠くなってくると、なかでも華やかに振る舞っていた女房が言います。
「入道君。あなたのような方は、おもしろい話をなさるはず。ひとつ、皆が吹き出しそうなお話をしてくださいな。笑って目を覚ましたいのですよ」
入道は、
「いや、私は口べたですから、人が笑いなさるような話は存じません。ですが、ただ笑いたいということなら、笑わせて差し上げましょう」
と言ったので、女房は、
「まさかそんなこと。ただ笑わせるというのは、滑稽な芸でもなさるのですか。それはまた、お話以上におもしろいことでしょうね」
と言って、笑います。
入道は、
「そんなことはしません。ただ笑わせて差し上げられるだろうと思う方法があるのです」
と言ったので、女房は、
「それはまた、どんなことですか。ではさっそく笑わせてくださいな。さあさあ、どんなことでしょう」
と責めるので、入道は立って走っていき、何か手にさげて持って来ました。

見ると、算木をぱらぱらと出します。
これを見た女房たちは、
「これが、おかしいことですの? では、笑いましょう」
と言って冷やかすのですが、入道は返事もせず、算木をさらさらと置きました。
置き終わり、そこにある幅七、八分(約2センチ強)ほどの算木を捧げて持ち、入道は、
「さて皆さん、それならば、お笑いにはなりませんね。では、笑わせて差し上げましょう」
と言うと、女房たちは、
「あなたの算木を持つ手つきのほうが、よほどおかしいわ」
など言っているうち、その算木を置くと見るや、みな大笑いし始めました。
笑いに笑って、どうにも止められず、まさに腹もさけそうで、死ぬほど苦しくて、笑いながら涙を流す者もいました。

朱世傑の四元玉鑑 (算木) で書かれた楊輝の三角形(パスカルの三角形)1303年

どうにも仕方なく、笑い転げながら入道に向かい、無言で手をすって拝むので、それを見た入道は、
「だから言わないことでない。もう笑い飽きなさったでしょう」
と言うと、女房たちは[うなずい]て、のけぞって笑いながら手を合わせるので、十分に苦しめておいてから、置いてある算木をさらさらと押し崩しました。
すると皆、笑いやみました。
「あとしばらくこのままにしていたら、皆死んでしまったことでしょう。今までこんなに苦しかったことはありませんでした」
と女房たちは言い合いました。
その後、笑い疲れ、しばらくは皆、倒れ伏したまま病人のようになっていました。

このようなわけで、「『算木を置いて人を殺したり生かしたりする術もある』といったが、これを習得していたら、たいしたものであったろう」と、この話を聞く人は評判し合いました。

このように算道はたいへん恐ろしいものであると人びとは語った、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻24第22話 俊平入道弟習算術語 第廿二
今昔物語集 巻24第22話 俊平入道弟習算術語 第廿二 今昔、丹後前司高階俊平朝臣と云ふ者有りき。後には法師に成て、丹後入道とて有し。其の弟に、官も無くて只有る者有けり。名をば□□□。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

本文中に名の出た高階俊平は、加賀守。のちに丹後守になる。最終官位は従四位下で、出家して法名を信寂といった。『後拾遺和歌集』に信寂の名で、和歌が採用されている。
また、永承元年(1046)、丹後守在任中に、五節の舞姫を献じていることが、『年中行事秘抄』に記されている。

本話は、この高階俊平の弟が主人公で、前段は太宰帥・藤原実成の供をして九州に下った際の話。後段は、法師になってから、庚申講で眠らずに夜を明かしたときの逸話。

算道とは、大学寮の四科の一つで、数を扱う。建築物を作るにも道路を造るにも、また田図を作成するにも数学は必要なのだが、一方で、算術は古来、呪術・卜占にも使われた。

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

【協力】株式会社TENTO・草野真一

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今昔物語集 現代語訳

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