巻十九第四話 源満仲の出家(その2)

巻十九

巻19第4話 摂津守源満仲出家語 第四

その1より続く)

その後、郎等たちは各自、弓矢を背負い、甲冑をつけ、四、五百人ばかりの者が館の周りを三重四重に取り囲んで、一晩じゅう篝火をたき、大勢の者を出して巡察させなどして、油断なく警護しました。
蠅一匹飛ばさぬようにして、その夜が明けると、守は夜明けを待つ間も、もどかしい思いで、明けるや否や沐浴し、早く出家したいと言います。
三人の聖人は、まことに尊い言葉をもって、彼をたたえ、出家を遂げさせました。

源満仲/菊池容斎画『前賢故実』より

その間、鷹小屋につないでおいた多くの鷹の足の紐をみな切って放つと、カラスが飛ぶように飛んで行きました。
ほうぼうに仕掛けた梁の所には人をやって壊しました。
鷲小屋にいた鷲たちもみな逃がします。
長倉に入れてあった大網なども、みな取りにやり、目の前で切り裂きました。
倉にあった甲冑、弓矢、刀剣の類はみな取り出し、目の前に積み上げて焼きました。
長年使っていた親しい郎等五十人余人は守と同時に出家してしまいました。
するとその妻子たちはみな大声で泣き騒ぎます。
出家の功徳はもともとたいへん尊いこととはいいながら、『この出家は、ことさら仏様がお喜びになるであろう』と思われました。
こうして守が出家を遂げてのち、聖人たちはいよいよ尊い話を、物語をかたるように話して聞かせると、守はますます手をすり合せて泣き入りました。
これを見た聖人たちは、「たいへん良い功徳をすすめることができたものだ」と思い、さらに、「もう少し彼に道心を付けてから帰ろう」と思って、「明日一日だけはこのまま滞在し、明後日帰りましょう」と言うと、新入道満仲はひどく喜んで、自分の部屋へ帰って行きました。

その日は暮れ、翌日、この聖人たちが話し合うには、「このように道心を起こした時には、気でも違ったようにどんなにか激しく道心を燃やしていることだろう。この機会に、いっそもう少し強く道心を起こさせてやろう」と。あらかじめ、「あるいは本当に信仰心を起こすことがあるかもしれない」と思い、阿弥陀仏を迎える場面を演じる迎講をするための、菩薩の装束を十着ほど持ってこさせてありました。
ただ、ここで笛や笙などを吹く者を数人雇い、それらを物陰にやり、菩薩の装束を着させ、「新入道がやってきて道心のことなどを話すおりに、お前たちは池の西にある山の後ろから、笛・笙などを吹き、美しい音楽を奏してやってきなさい」と命じました。
そこで、音楽を奏しながら、しだいに近づいて来ると、新入道はそれを見て、「あれはいったい何の為の音楽ですか」と、けげんな面持ちで聞きます。
聖人たちは、そ知らぬ顔で、「何のための音楽でしょうね。極楽のお迎えなどが来るときには、このような音楽が聞こえるのでしょうか。さあ、念仏を唱えましょう」と言って、聖人たちや十人ほどの弟子たちが一堂に声を合わせて尊い声で念仏を唱えたので、新入道はひたすらに手をすり合せ、限りなく尊ぶのでありました。
そして、新入道が自分の坐っているそばの襖を引き開けて見ると、金色の菩薩が金の蓮華を捧げ持って、しずしずと近づいて来られます。
これを見た新入道は大声をあげて泣き、縁側から転げ落ちて拝みました。
聖人たちも、これをうやうやしく拝みました。
やがて菩薩は、楽の音色を一段と整えて帰って行きました。

そのあとで、新入道は縁側に上り、「じつにこの上ない功徳をつくらせてくださったことです。私は数知れず生き物を殺した人間です。その罪をあがなうためにさっそくお堂を建て、自分の罪をあがなうと共に、殺した生き物をも救ってやろうと思います」と言って、直ちに堂の建立を始めました。
聖人たちは、そのあくる日の早朝、多田を出て、比叡山へ帰って行きました。
その後、その堂は出来上がり、供養を行いました。
いわゆる多田寺はその時はじめて建立された御堂であります。

多田寺(福井県小浜市)

これを思うと、出家はしかるべき機縁があることとはいいながら、子の源賢の心は、まことにまれに見る尊いものであります。
また、仏のような聖人たちの勧めたことだから、この極悪人も急に心を改め、善心に立ち戻って出家したのである、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻19第4話 摂津守源満仲出家語 第四
今昔物語集 巻19第4話 摂津守源満仲出家語 第四 今昔、円融院の天皇の御代に、左の馬の頭源の満仲と云ふ人有けり。筑前守基経と云ける人の子也。世に並び無き兵にて有ければ、公けも此れを止事無き者になむ思食ける。亦、大臣・公卿より始て、世の人、皆此れを用ゐてぞ有ける。階(しな)も賤しからず。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

源信

『念仏』というと、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞という鎌倉時代の名僧を思い浮かべるだろう。しかし、実はそれ以前から念仏は天台宗の儀式の中にあり、出家者が唱えるものであった。それを庶民に広めたのは、市の聖・空也(くうや・903-972)。
一方で、地獄を鮮やかに描写し、浄土に往生するための方法論『往生要集』を著して、念仏の功徳を説いた学僧がいる。彼の名は日本だけでなく中国仏教界にまで知れ渡った。それが、本話で満仲に出家を勧めた源信(げんしん・942-1017)である。

平安中期の富裕層の出家の様子は、この説話のようであろうと推測される。

源満仲

源満仲は、清和源氏の源経基(みなもとのつねもと)の嫡男として生まれた。『尊卑分脈』によれば、延喜12年(912)4月10日に生誕し、長徳3年(997)8月27日に87歳で亡くなったという。
一方、『今昔物語集』のこの説話の出家時の年齢を元にすると、「920年代前半に生まれ、長徳3年に70歳前後で亡くなった」のではないかと、元木泰雄氏はその著書で推定している。
母は、橘繁古の娘とも藤原敏有の娘などと言われているが、確かなことはわからない。

妻には、源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘などがいる。
源俊の娘からは、嫡男の源頼光、そしてこの説話で父を出家させる源賢(977-1020)。
藤原致忠の娘からは、次男の源頼親、三男の源頼信。
他に生母不詳ながら、阿闍梨の頼尋が生まれている。

若年の頃、満仲が何をしていたかは不明だが、父の経基に従って、平将門の乱・藤原純友の乱に遭遇したと考えられる。
満仲が史料の上に現れるのは、天徳4年(960)、40代の頃である。平将門の子の入京の噂により、検非違使らと共に捜索を命じられている。
翌年には邸宅に強盗が入り、一味を自ら捕えている。また、この年、父・経基が死去。
康保2年(965)、村上天皇の鷹飼になる。この役職は蔵人所に属する。
安和元年(986)、住吉社参詣の途上、霊夢によって多田に荘園を開拓する。
その翌年の3月、満仲の密告によって左大臣・源高明が左遷され、藤原氏の他氏排斥が完了する。
源高明のこの事件については、『今昔物語集』巻27第3話の怪異が予兆であったのではないか、とささやかれたという話がある。

巻二十七第三話 桃園の柱の穴から幼児の手が出てきて人を呼ぶ話
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藤原氏が臣籍降下した皇子の源高明を陥れると並行して、満仲も東国の武蔵で覇権を争っていた藤原秀郷の子で源高明を私君としていた藤原千晴を追い落とした。これによって、満仲は、正五位下に昇進した。
その後は、摂津・越後・越前・伊予・陸奥と重要かつ豊かな国の国司を歴任し、莫大な富を得た。
そのため、天延元年(973)には武装集団に左京一条にあった邸を襲撃され、このときの放火で周辺の建物300から500軒が延焼したという。
また、寛和元年(986)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した。
本話にある出家は、永延元年(987)のことで、藤原実資の日記『小右記』にも記されている。

源満仲は、武に優れ、多くの郎等を従えて武士団を形成し、摂津多田の地に公権の及ばない支配地を持っていた。しかし武骨一辺倒の人物であったかというと、そうでもなく、私君として仕えた藤原兼家らのもとで知遇を得たのであろうか、『梨壺の五人』の一人で清少納言の父・歌人の清原元輔とも交流があり、読み交わした和歌が『拾遺集』に残されている。

巻二十八第六話 清原元輔、賀茂の祭りで落馬する
巻28第6話 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語 第六今は昔、清原元輔(きよはらのもとすけ)という歌人がいました。それが内蔵助(くらのすけ・宮中の御用物の調達にあたった内蔵寮の次官)になって賀茂祭の奉幣使を務めたのですが、一条大路を通っていると...

清和源氏について

12世紀、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にこんな今様(いまよう)がある。

「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」

皇子・皇女に源姓を与えて臣籍降下させた天皇は二十一。源氏は、それぞれ始祖の天皇の名を冠して呼ばれる。架空の話だが、『源氏物語』の光源氏は桐壷帝の皇子なので、桐壷源氏となる。
臣籍降下した皇子たちは、多くが文官の道を歩んだ。しかし武門では、清和源氏が名高い。
八幡太郎こと清和源氏の源義家(みなもとのよしいえ)は、「天下第一武勇之士」と当時の人びとに畏怖される一方、『古事談』によれば、白河院は義家愛用の弓を枕元に置くことで物の怪を撃退したという。
平安末期の源頼政(みなもとのよりまさ)のヌエ退治が語られるように、武門の源氏は宗教的・呪術的要素も含めて王権を擁護する存在となっていった。

この武門源氏の祖は、経基王(つねもとおう)。
彼の祖父・清和天皇の治世は、『貞観の治』と呼ばれ、平穏で芸術・文化が隆盛した。「清和源氏」には十四の系統があり、その中で経基の父は清和天皇の六男・貞純親王だとされている。
しかし、生没年など不自然な点が多く、明治の頃から論争があり、清和天皇の第一皇子・陽成天皇が祖父、父はその皇子・元平親王だという説もある。

清和天皇

経基王は「いまだ兵の道に練れず」といわれ、自分の武士団を持たず、のちに同じく『兵(つわもの)の家』の祖と呼ばれる平貞盛・藤原秀郷のように、承平天慶の乱で武功があったわけでもない。
天慶元年(938)に武蔵介に任じられた経基は、権守の興世王と共に先例を破り、国守の到着を待たずに武力をもって、税の未納や延滞分を奪い去った。税というのは建て前で、露骨な財物の強奪である。
これに抵抗した郡司・武芝は、坂東で国司をしのぐ力を持っていた平将門を頼った。将門は調停に乗り出し、興世王はこれに応じたが、経基は妻子を連れて山に籠り、それを武芝の軍が包囲すると、経基は驚いて逃亡してしまった。『将門記』によれば、「戦いの作法――兵の道」を知らなかったらしい。
経基は京へ逃げ戻り、「将門、謀反」と言いたてるが誣告として獄に収監されてしまう。のちに、将門が乱を起こしたので、許され、従五位下に叙された。
将門追討の副将軍の一人に任命され、坂東に着く前に将門が討ち取られると、次に経基は純友追討の中心的武力として、大宰権少弐に任ぜられる。けれどもここでもたいした働きはなく、任を解かれ帰京。しかし、正四位上に昇進して、最晩年の応和元年(961)に源姓を賜る。
経基のこの厚遇には、陽成院とその周辺の人びとが関わったようだと、元木泰雄氏はその著書で述べている。
経基は、武芸はできたかもしれないが、武人ではなかった。
武門源氏の実質的な祖は、その嫡男・満仲だといえる。

満仲は前述したように摂津国多田に土着して京と行き来しながら武士団を形成した。
その嫡男の頼光(よりみつ)は藤原北家と結んで勢力を伸ばし、本拠とした土地から、摂津源氏の祖と呼ばれる。平安末期、以仁王の令旨によって平氏打倒の兵を挙げるが破れて宇治平等院で自死した源三位頼政は頼光の子孫である。
次男の頼親(よりちか)は大和国を本拠として大和源氏に。この頼親は、郎等・秦氏元の子の一党に命じ、寛仁元年(1017)、藤原保昌の郎等・清原致信を殺害する事件を起こす。頼親の父・満仲と致信の父・元輔が親しい友人同士であったことを思うと、皮肉な巡り合わせである。
三男・頼信(よりのぶ)は河内国石川荘を本拠とする河内源氏の祖となった。

前九年の役・後三年の役で、頼信の子・頼義(よりよし)とその嫡男・義家(よしいえ)が活躍し、武家の棟梁としての地位を確立した。これによって、河内源氏が武門源氏の嫡流となる。

のち、院政期に保元の乱・平治の乱で敗北し、勢力が後退したが、義家のひ孫・義朝(よしとも)の子の頼朝(よりとも)が鎌倉幕府を創設し、武家政権を樹立した。
しかし、頼信から続く清和源氏の嫡流は鎌倉幕府三代将軍・実朝(さねとも)で途切れる。とはいえ、支流は諸国に広がっており、武田・佐竹・新田・足利の各氏も清和源氏である。

『後三年合戦絵詞』の源義家

ことに室町幕府を開いた足利氏は、武門源氏の始祖・満仲の霊廟がある多田院を深く信仰し、足利幕府の祖・尊氏(たかうじ)の遺骨を奉納、次代の義詮(よしあきら)の遺骨も分骨され、多田院は歴代将軍の篤い信仰の対象となった。

のちに、応仁・文明の乱が勃発した際に多田院が鳴動する。
大乱の最中ということもあって朝廷でも大問題となり、満仲に死後五百年近くを経て、従二位が贈られた。
その後、清和源氏を自称した徳川氏の幕府においても満仲は尊崇された。
四代将軍家綱の手によって戦国の争乱で破壊された多田院が再建され、五代将軍綱吉のときには、正一位が授与されるに至った。

生前、正四位下で終わった満仲だが、武門源氏の祖として数百年を経たあとに、人ならば太政大臣、神ならば伏見稲荷、東照大権現(徳川家康)と同じ位が贈られたのだった。

(草野記)
原文を提供してくれているやたがらすナビさんがたいへん興味ぶかい読解をされています。

鮮やかすぎる源信のオルグ : やた管ブログ
『今昔物語集』に出てきた、源満仲に対する源信のオルグがあまりにあざやかだったので感動した。 『今昔物語集』巻19 摂津守源満仲出家語 第四:やたナビTEXT 源満仲(多田満仲)の息子に、源賢という比叡山で修行する僧侶がいた。いい年した満仲が殺生を好むことを心配し


〈『今昔物語集』関連説話〉
源頼光:巻25「春宮の大進源頼光の朝臣狐を射る語第六」
源頼親:巻25「源頼親の朝臣清原□□を罸た令むる語第八」
源頼信:巻25「源頼信の朝臣平忠恒を責むる語第九」「頼信の言に依りて平貞道人の頭を切る語第十」「藤原親孝盗人の為に質に捕へられ頼信の言に依りて免す語第十一」「源頼信の朝臣の男頼義馬盗人を射殺す語第十二」
清原元輔:巻28「歌読元輔賀茂祭に一条大路を渡る語第六」
源高明:巻27「桃園の柱の穴より児の手を指し出でて人を招く語第三」

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集22『今昔物語集二』
『源満仲・頼光―殺生放逸 朝家の守護―』元木泰雄著、ミネルヴァ書

巻十九
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今昔物語集 現代語訳

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