巻19第3話 内記慶滋ノ保胤出家語 第三
(その1より続く)
その後、東山の如意(にょい・如意輪寺)という所に住んでいましたが、六条院(ろくじょうのいん)から「すぐに参上せよ」と、お召しがあったので、知人の馬を借りて、それに乗って朝早くから出かけて行きました。
普通の人は馬に乗ると、かき[あおっ]て行きますが、この□□[寂心]は、のんびりと馬の歩くにまかせて行くものだから、馬が途中で止まって草を食うと、そのままそこにいつまでも立ち止まっています。
だから、いつまでも道がはかどらず、同じ場所で日を暮らしてしまうので、馬の口取りの舎人(とねり)の男は、しびれを切らして馬の尻を叩きます。
すると、やにわに□□[寂心]は馬から飛び降りて舎人の男につかみ掛かり、「お前はいったい、どう思ってこんなことをするのか。この老法師が乗らせていただいているので、馬鹿にしてそのようにお打ちするのか。これだとて、前世以来、何度も何度も父母となっておられた馬だと思わないか。お前はこの馬を『自分の父母ではない』と思って、そのように侮り奉っているのか。お前にとっても何度も父母になり、お前をいとおしんだ、その恩愛の執着の咎(とが)によって、このように獣の身となり、また多くの地獄道・餓鬼道にも堕ちて苦しみを受けているのではないか。このように獣となったのも、子を愛しいとかわいがったための報いとして受けた身なのだ。なんとも堪えがたいほど何か食べたくなられたので、青い草の葉がおいしそうに生えているのを見て、見過ごしがたく、むしり食べなさろうとしているのを、お前はどうしてもったいなくも打ち奉るのか。また、この馬は前世に数知れぬほど何度もこの老法師の父母ともなっておられたと思うと、もったいなくは思うけれど、私は年老いて立ち居も思うにまかせず、少し遠い道は早く歩くことが出来ないので、恐れ多いことながら、乗らせていただいているのだ。それなのに、道に生えた草を食べなさろうとするのを、どうして妨げ申して、かき[あおっ]て行くことができようぞ。じつに慈悲のない男だなあ」と、大声で泣き叫びました。
舎人の男は内心おかしく思いましたが、泣くのを見て気の毒になり、「おっしゃることは道理至極でございます。私は乱心して、つい叩いてしまいました。下郎はしようのないもので、このように馬とお生まれなさっているのを、その事情も知らぬままに叩き奉ったのでございます。今後は、父母ともおたのみして、大切にいたしましょう」と答えました。
それを聞いて□□[寂心]は、声をつまらせ、何度もしゃくりあげて、「ああ、もったいない。もったいない」と言って、また馬に乗りました。
こうして進んでいくうちに、道ばたに朽ちゆがんだ卒塔婆(そとば)がありました。
これを見るや、あわてふためき、転がるように馬から飛び降りました。
舎人の男は訳が分からず、急いでそばに寄り、馬の口を取ると、降りた所から少し先に馬を引き止めさせました。
舎人の男が馬を止めて振り返ると、ススキが少し群がった所に、□□[寂心]は平伏しました。
袴(はかま)のくくりを降ろし、童に持たせた袈裟(けさ)を取って着ます。
衣の襟をきちんと整え、左右の袖をかき合わせ、深く腰をかがめて、卒塔婆の方を伏目に見やりながら、御随身(みずいじん)がするように丁重に近くへ歩み寄り、涙を流して卒塔婆の前まで行き、卒塔婆に向かって手を合わせ、額を地面につけて何度も何度も礼拝し、折り目正しく恐縮したように振る舞います。
その上で、卒塔婆から身を隠すようにして、馬に乗りました。
卒塔婆を見るたびにこのようにするものだから、道中ずっと降りたり乗ったりで、一時(いっとき・2時間)以内で行き着く道を卯(う)の時(午前6時ごろ)から申(さる)の下刻(午後5時すぎ)までかかって、やっと六条院の屋敷に着くという始末でありました。
この舎人の男は、「この聖人のお供は今後、まっぴらだ。どうにもこうにも、じれったくて」と、こう言いました。
また、石蔵(いわくら)という所に住んでいたころ、冷え過ぎで下痢をしました。
厠(かわや)に行きましたが、隣の僧房にいる僧が聞くと、厠の中で盥(たらい)の水をぶちまけるような音がします。
年老いた人が、このようにひどい下痢をするので、「ひどく気の毒だ」と思っていると、聖人が何か話をしています。
「誰か中にいるに違いない」と思い、そっと壁の穴から覗いて見ると、老いた犬が一匹いて、聖人と向いあっています。
聖人が立ち上がるのを待っているのでしょう。
それに向かって話しているのでした。
その言葉を聞くと、「あなたは前世に人に対して後ろ暗い行いをし、人にきたないものを食わせ、やたらと威張り、自分だけが偉い者のように見せかけて人を軽蔑し、父母に対しては不孝を行い、その他このようなありとあらゆる悪心を働かせ、善心は持つことがなかったので、こういう獣の身に生まれたのです。それで、どうしようもなくきたないものを求め、それをねらって食べるのです。しかし、遠い前世に何度も我が父母となっておられたその身に、このような不浄のものを食べさせ奉ることは、いかにも恐れ多いことです。とりわけ、この数日来、風邪をひき、水のような便をしておりますので、とても食べられたものではありません。たいへん申し訳なく思っております。ですから明日、おいしい物をこしらえて差し上げましょう。それを思う存分、おあがりになってください」と、繰り返し言って、目から涙を流し、さめざめと泣いていましたが、やがて立ち上がりました。
その翌日、聖人の様子をのぞき見した僧がそのことを誰にも言わず、「聖人が昨日言った犬のご馳走はどうするのだろうか」と見ていると、聖人は、「お客さんに食事を出そう」と言って、土器にたくさん飯を盛らせました。おかずを三、四種ほどととのえ、庭に莚(むしろ)を敷いてその上にこの食膳を置き、聖人は下に降りて、その前に坐り、「お食事の用意ができました。早くおいでなさい」と大声で言いました。
すると、あの犬がやってきて、飯を食べます。
それを見て聖人は手をすり合わせ、「よく食べてくださる。食事をこしらえたかいがあった」と言って泣いていると、わきから若い大きな犬が出て来て、その飯をすぐには横取りしないで、前の老犬を突き転ばし、食い物をめちゃくちゃにしてしまいました。
そのとき、聖人はあわてて立ち上がり、「そんな乱暴はなさるな。あなたのお食事も用意しましょう。まず、どうか仲良くおあがりなさい。そのような道にはずれた心をお持ちだから、情けない獣の身に生まれなさったのですよ」と言って止めましたが、言うことをきくはずもありません。
飯も何もみな泥まみれに踏み散らし、大声で咬み合いをしています。
その声を聞きつけて、他の多くの犬が集まって来て、食い合い、唸り吠えたてれば、聖人は、「こんな浅ましいお心を持つ方々のすることは見ない方がよい」と言って、逃げて縁側へ上がってしまいました。
隣の房の僧は、この様子を見て笑いました。
仏の道に達した人とはいえ、犬の心を知らず、その前世のことだけ考えて敬ったのですが、犬の方ではそれを理解できるはずもありません。
この聖人は、内記聖人といって、仏道に深く達し、道心の盛んな尊い方であった――とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
中国仏教の影響下にあった日本では、釈迦の入滅後千年間は成道する仏弟子のいる「正法(しょうほう)」の時代、それから千年間は形だけ真似て成道する者がでない「像法(ぞうほう)」の時代、それ以後は法すら滅びていく「末法(まっぽう)」の時代、さらに完全な「法滅(ほうめつ)」へ続くとされ、末法突入は、永承7年(1052)と考えられていた。
ちなみに、永承7年は後冷泉天皇の治世、翌年に関白・藤原頼通が宇治に平等院鳳凰堂を建立している。陸奥では、前九年の役の最中。
また仏教の世界観では、あらゆる生き物は悟りを開かないかぎり、永遠に六つの世界、六道を輪廻する。六道とは、天道・人道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道である。
仏教の最大の目的は、衆生済度――つまり、人びとを迷いの苦海から救って、悟りを得させること――だが、日本の場合、受容した当初からその目的は国家鎮護にあり、僧侶や寺院は天皇や有力貴族と密接な関係にあった。9世紀に寺院ごとに毎年、一定数の者を出家させる制度(年分度者の制)が定められると、税や課役から逃れるために勝手に髪を落とす農民らが相次いだ。そのため、僧侶がみな妻子を持ち、生臭ものを喰らい、修行とは形だけ、という質の低下が起きる。
長保4年(1002)に亡くなった保胤が生きたのはまだ末法とは言えない時代だったが、僧侶の堕落は、経典に描かれる「像法」、「末法」の世の姿そのものだった。
本話は、保胤の一途な道心を伝えるが、そのかたくなな心は、ときに思わぬ失敗を招き、ユーモラスな結果となっている。
後半、滑稽譚になっている部分もあるが、実際の保胤は皇族や高位貴族と親交があり、藤原道長に戒を授けるほど徳の高い僧であった。
〈『今昔物語集』関連説話〉
賀茂忠行:巻24「賀茂忠行、道を子の保憲に伝えし語第十五」巻24「安倍清明、忠行に随へて道を習ひし語第十六」
賀茂保憲:巻24第15、巻24「保憲、清明、共に覆物を占ひし語第十七(欠話)」
菅原文時:巻24「村上天皇と菅原文時と詩を作り給ふ語第二十六」
大江定基(寂照):巻19「参河守大江定基出家する語第二」巻24「参河守大江定基送り来たりて和歌を読む語第四十八」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集22『今昔物語集二』
『浄土の本』学習研究社
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