巻24第56話 播磨国郡司家女読和歌語 第五十六
今は昔、高階為家朝臣(たかしなのためいえのあそん)が播磨守(今の兵庫県南西部の国司)であったとき、これといって取り柄のない侍がいました。
本名は知らず、通称を佐太(さた)といいました。
守も本名を呼ばず、「佐太」と呼んで使っていました。
大して取り柄もありませんが、長年[まじめに]仕えていたので、ちっぽけな郡の租税取り立て役を当てがってやったところ、喜んでその郡へ行き、郡司の家に宿を取り、収めるべき租税についてさまざまな指示を与えておいて、四、五日ほどして国庁へ帰りました。
ところが、この郡司の家に一人の遊女が京から人にかどわかされて来ていました。
郡司夫婦はこの女を哀れんで家に引き取り、裁縫などさせてみると、女はこういうことも手際よくやってのけたので、いっそう情がわき、家に住まわせていたのでした。
さて、この佐太が国庁へ帰ってきたあとで、一人の従者が、
「あの郡司の家に、姿かたちの良い、髪の長い、女房とでもいうような女がおりましたよ」
と言います。
佐太はこれを聞き、
「こいつめ、わしがそこにいるときに言わず、ここに帰って来て言うとは、けしからん奴だ」
と腹を立てると、従者の男は、
「あなた様のお席の脇に立ててあった切懸(きりかけ・目隠しに立てる板塀の一種)の向こう側に、その女はおりましたので、ご存じかと思っておりました」
と言いました。
そこで佐太は、「あの郡へはしばらく行くまい」と思っていましたが、「さっそく行って、その女を見よう」という気になり、休暇を申し出て、すぐに出かけていきました。
郡司の家に行き着くや、前から関係のある女に対してでも疎遠にしているときにはそんな無遠慮なことはしないのに、まるで従者に対してするかのように、女のいる部屋に押し入って、強引に口説きにかかりました。
しかし女は、
「あいにく今はさわり(月経)でございます。ご返事は後ほどに」
など言って、きっぱりと断り、言うことをきこうとしないので、佐太は怒ってそこを出て行くままに、着ていた安っぽい水干の綻(ほころび)のくくり糸がほつれたのを脱いで、切懸(きりかけ)越しに投げて寄越し、大声で、
「このほつれ目を縫ってよこせ」
と言いました。
すぐにそれを投げ返してきたので、佐太は、
「縫い物をしていると聞いているだけあって、さすがに早く縫って寄越したものだな」
と、だみ声を張り上げてほめ、さて手に取ってみると、ほつれ目は縫ってなく、香り高い陸奥紙(みちのくがみ・良質の厚手の和紙)の切れ端に何か書いて、ほつれ目のわきに結びつけてありました。
佐太は不審に思い、それをほどき、開いてみると、こう書いてありました。
我(われ)が身は 竹の葉の林に あらねども
さたが衣を 脱ぎかくるかな
(私の身体は、かの薩埵太子(さたたいし/解説参照)の竹の林ではありませんのに、佐太が着物を脱ぎ掛けるとは、なんということでしょう)
佐太はこれを見て、「奥ゆかしく風流なことだ」などと思うことは決してあり得ないにしても、見たとたんにものすごく怒り出し、
「めしいた女め。ほつれ目を縫いにやったのに、ほころびのほつれ目さえ見つけられず、なんだ、この佐太呼ばわりは。佐太という名が卑しいとでも言うのか。かたじけなくも、我が殿さえ、いまだわしの本名はお呼びになったことがないのだぞ。なんでこの女め、『佐太が』などと呼びやがるか」
と、わめくや、
「この女め、思い知らせてくれよう」
と言って、
「お前のあそこをどうこうしてやろうか」
などとののしり散らします。
女はこれを聞いて、泣き出しました。
佐太は怒って郡司を呼び出し、
「殿様に訴えて処罰してやる」
と、𠮟りつけたので、郡司は震え上がり、
「つまらない女を哀れんで家に置き、そのおかげでお殿様のお咎めをこうむるはめになった」
と言って、途方に暮れます。
女も「どうしたらいいか、困ったことになった」と思っていました。
佐太はぷりぷり怒って国庁に帰り、侍の詰所で、
「くそ面白くもない。思わぬ女に情けなくも佐太呼ばわりされた。これは殿のお名にもかかわることだ」
と言って、一人で腹を立てています。
同僚の侍たちがこれを聞き、わけが分からないので、
「どんな目に遭って、そんなことを言うのか」
と問えば、佐太は、
「こういうことはみな同様にかかわりのあることだから、殿に申し上げてくだされ」
と言って、事の次第を語り聞かせたところ、
「それは、それは」
と言って笑う者もあり、憎む者もありましたが、女の方に皆、同情しました。
やがて、このことが播磨守の耳に入り、佐太を近くに呼んで訊くと、佐太は「自分の訴えが聞き届けられた」と思い、喜んで、大げさに身を乗り出すようにして申し上げます。
守は話をよくよく聞いたあと、
「おまえは人間ではない。大馬鹿者だ。こんな奴だと知らず、よくも長年使っていたものだ」
と言って、永久に追放してしまいました。
一方で、その女を気の毒に思い、着る物などを与えてやりました。
佐太は自分の不埒な心がけからとはいえ、主人から追放され、郡役所に出入りすることも止められたので、どうするあてもなく、京に上りました。
郡司は「罰せられる」と思っていたところ、こういうことになったと聞いて、ひどく喜んだ、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
本文中の和歌にある「薩埵太子」とは、釈迦本生譚の故事の一つ。天竺の薩埵太子が竹林中の飢えた母虎を哀れみ、衣服を脱いで竹に掛け、裸身を虎に供養した話から。
女の和歌は、衣を脱いで投げ掛けてきた佐太の行為を、同じ音の薩埵太子の故事を踏まえて詠んだもの。
無知な佐太は、これが理解できずに馬鹿にされたと思い、怒り出し、主人がこのことを知って、佐太が不心得者だと分かり、罰したという話である。
この厚顔野卑な佐太の主人、高階為家は白河天皇治世の頃の承保・寛治の間に播磨・伊予守を経て、近江守兼中宮亮。寛治7年(1093)十月、興福寺の愁訴により解任されて土佐国へ配流された。嘉承元年(1106)11月17日、69歳で没している。
また本話は、高階為家の播磨守在任が『今昔物語集』の作者だと思われていた源隆国の没後、承暦元年(1077)後に及んでいたことから、『今昔物語集』の作者及び成立年時を推測する上で注目されてきた一話でもある。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
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