巻二十九第十七話 大がかりな計略で鐘を盗み出した窃盗団の話

巻二十九

巻29第17話 摂津国来小屋寺盗鐘語 第十七

今は昔、摂津の国(大阪府・兵庫県)□の郡に小屋寺(こやでら)という寺がありました。
その寺に年が八十歳ほどはあろうかと見える法師がやって来て、その寺の住職に会って言いました。
「私は西国から京の方に行こうと思っておりますが、年寄りでひどく疲れてしまい、この先とても歩けそうにありません。このお寺のどこかに、しばらく置いていただきとう存じます。適当な所がありましたら、置いてくださいませんか」
住持は、
「今すぐお泊まりいただけるような所はありません。囲いもない御堂の廊下などに居られたのでは、風に吹かれて凍えてしまわれるでしょう」と答えました。
「それでは、鐘つき堂の下でしたらおられるでしょう。周囲に囲いがある所ですから、あそこに置いていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」と老法師は言います。住持は、
「なるほど、あそこならいいでしょう。では、あそこにおいでになってお泊まり下され。そして、鐘でもおつき頂ければ、まことに都合がよろしい」と答えました。
老法師はたいそう喜びました。

そこで住持は、老法師を連れて鐘つき堂の下に連れて行きました。
「鐘つきの法師の莚(むしろ)・薦(こも)などがあります。それを使ってここでお泊りください」
こうして、老法師を置いてやることになりました。
それから住持は鐘つきの法師に会って、
「ここに流浪の老法師※1がやって来て、『鐘つき堂の下に泊めてくれ』と言うので泊めてやることにした。『鐘もつく』と言うので、『いる間はつけ』と言っておいた。その間はお前は休んでいていい」
と言いました。鐘つきの法師は、
「それはありがたいことです」
と言って、去っていきました。
さて、その後、二夜ばかりはこの老法師が鐘をつきました。
その次の日の巳の時(午前十時頃)ばかりに、鐘つきの法師がやって来て、「このように□□に鐘をつく法師はどういう者なのか、見てやろう」と思いまして、鐘つき堂の下に向かって、
「御坊はいらっしゃいますか」
と言って、戸を押し開けて這い入ってみました。すると、八十歳ほどのひどく老いぼれて背の高い老法師が、粗末な布衣(ほい)を腰に巻いて、手足をいっぱいに伸ばして死んでいました。
鐘つきの法師はこれを見て飛び出して、御堂にいる住持のもとに行き、
「老法師が死んで倒れています。どういたしましょう」
と、あわてふためいて言いました。住持も驚いて、鐘つきの法師を連れて鐘堂に行き、戸を細目に開けて覗いてみました。間違いなく老法師は死んで横たわっていました。

そこで、戸を閉じて、住持は寺の僧たちを集めてこの由を告げました。寺の僧たちは、
「つまらぬ法師を泊めて、寺に穢れ※2を持ち込んだ大徳(だいとく)※3ですなあ」
と、腹立たし気に言い合いました。
「だが、今さら仕方がない。郷の者どもを集めて、取り棄てさせよう」
と、郷の者どもを集めようとしましたが、
「御社の祭りが近づいており、穢れるわけにはいかない」
と言って、死人に手を触れようとする者は一人もいません。
「そうとはいえ、このままにはしておけないぞ」
などと言って大声で騒ぎ合っているうちに、いつしか午未(うまひつじ・午後一時頃)になりました。

すると、年の頃が三十くらいで、薄いねずみ色の水干(男子の平服)に裾に向けて濃ゆく紫に染められた袴を着た男が二人、袴のわきを高々とはしょって帯に挟み、大きな刀をこれ見よがしに腰に差して、綾藺笠(あやいがさ)※4を首に懸け、下賤の者ではあるが見苦しくはない者が、軽快な姿で現れました。

綾藺笠

僧房に僧たちが集まっている所に行き、
「もしや、この御寺の辺りに年老いた法師が参っておりませんか」
と尋ねました。僧たちが、
「先日から鐘つき堂の下に、年が八十くらいで背の高い老僧が来ていました。ところが、今朝見てみますと、死んで横たわっていたとのことです」
と答えると、その男たちは、
「これは大変な事になった」
と言うなり、大声で泣きだしました。
僧たちは、
「あなた方はどういう人ですか。どうしてそれほど泣かれるのですか」
と尋ねると、男たちは、
「その老法師は、私たちの父でございます。父は老いて頑固になり、ちょっとした事でも気に入らない事がありますと、いつもこのように家出ばかりしておりました。私たちは播磨の国の明石の郡(兵庫県明石市)に住んでおりますが、先日父がまた家出してしまいましたので、手分けしてここ数日捜していたのでございます。私たちはそれほど貧しい身ではございません。田十余町は、私たちの名義になっております。この隣の郡にも配下の郎等が数多くおります。ともあれそこに行って、本当に父であれば、夕方葬りたいと思います」
と言って、鐘つき堂の下に入って行きました。
住持について行き、外に立って見ていました。すると、この男たちは鐘つき堂に這い入って、老法師の顔を見るや、
「わが父はここにおいででしたか」
と言って、突っ伏して身を震わせて声を挙げて泣き叫びました。
住持もその様子を見て、哀れに思えてもらい泣きした。男たちは、
「年老いて頑固になられ、ともすれば隠れて出歩かれ、とうとう、このような哀れな所で死んでしまわれた。悲しいことに、死に目にお会いすることも出来なかった」
と言いながら泣き続けました。
やがて、しばらくすると、
「こうなってしまっては、お葬式の準備にかかろう」
と言って、戸を引き立てて出て行きました。
住持が、男たちが泣いていた様子を寺の僧たちに話すと、哀れがること限りありませんでした。僧たちの中にも、これを聞いてもらい泣きする者もいました。

そして、戌の時(いのとき・午後八時頃)になると、四、五十人ほどの人がやって来て、がやがや言いながらこの法師を担ぎ出しました。弓矢で武装している者も数多くいました。
僧房は鐘堂から遠く離れているので、法師を担ぎ出す様子を僧房から出て見る者はいませんでした。みな怖気づいて僧房の戸に錠をして籠って聞いていると、後ろの山の麓の、十町ばかり離れた所にある松原の中に亡骸を運び、終夜(よもすがら)念仏を唱え、鉦を叩き、夜が明けるまで葬儀を行ったあと去って行きました。

寺の僧たちは、法師が死んでいた鐘堂の辺りに近寄る者はいませんでした。そして、死による穢れの三十日の間は鐘つきの法師も鐘堂で鐘をつこうとしませんでした。
やがて、三十日が過ぎたので、鐘つきの法師が鐘堂の下を掃こうと思って行ってみますと、大鐘がなくなっていました。

「これは一体どうしたことだ」
と、寺の僧たち全員に告げて廻りました。僧たちが皆集まって来てみましたが、盗賊が盗んだのだから、あろうはずもありません。
「あの老法師の葬式は、なんと、この鐘を盗もうとして謀った芝居だったのか」
と気づいて、
「葬った所はどうなっているのか」
と言って、寺の僧たちや郷の者たち大勢が連れ立って、彼の松原に行ってみました。
大きな松の木を伐って鐘に寄せて焼いたらしく、銅の破片があちらこちらに散らばっていました。
「実にうまく企んだ奴らだ」
と言って騒ぎ合ったが、誰の仕業か分からないので、どうすることも出来ずそのままに終わりました。
そのため、その寺に鐘は無いままであります。

これを思うに、計略を立てて盗みを働く者もいるものです。
しかし、どうして死んだふりをして身動きもせず長い時間いることができましょうか。また、どうして思いのままに涙を流すことができましょうか。実際に見ていて、何の関係もない者までが皆悲しんだのです。
「実に巧みに謀った奴らだ」
と見聞きした人は盛んに噂し合いました。
されば、何事につけ、もっともだと思われる事であっても、見知らぬ者がする事は、よく思いを巡らして疑ってかかるべきだ、とこのように語り伝えているということであります。

【原文】

巻29第17話 摂津国来小屋寺盗鐘語 第十七
今昔物語集 巻29第17話 摂津国来小屋寺盗鐘語 第十七 今昔、摂津の国□□の郡に、小屋寺と云ふ寺有り。 其の寺に、年八十許は有らむと見ゆる法師出来て、其の寺の住持の法師に会て語る様、「己は西の国より罷上て、京の方へ行かむと思給ふるに、年老ひ身の羸(つかれ)て、罷り上るべき様も思えぬを、『此の御寺の辺に暫し候はむ...

【翻訳】 松元智宏

【校正】 松元智宏・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 松元智宏

※1 原文「浮かれたる老法師」。現代語では「浮かれる」というと主に「 楽しくなって心がうきうきする」という意味ですが、古語では「あてもなくさまよう」、「心が落ち着かない」などの意で使われることが多いです。

※2 平安時代、死穢に触れることはタブーでした。触穢から1ヶ月近く物忌の期間を必要としています。詳しくは下の解説にて。

※3 高僧に対する敬称ですが、ここでは、住持に対する皮肉で使っています。

※4 い草で編んだ笠で、流鏑馬で使われているような笠。

平安の人々にとって「死」とは?

この話では「人々は死に関わることを忌み嫌う」ということを前提にして大掛かりな「鐘窃盗団」が組織的に鐘を盗みます。四、五十人がかりで鐘を盗むところも気になりますが、ここでは平安の人々の死との関わり方について見ていきましょう。

老僧の死体(と思われている)を郷の者たちに捨てさせようとすると、
「『御社の祭近く成にたるには、何で穢るべきぞ』と云て、死人に手懸けむと云ふ者、一人無し」
と、死体に触れようとする者はいませんでした。
また、
「寺の僧共、其の後、此の法師の死たる鐘堂の当りに、惣て寄る者無し」
とあるように、鐘つき堂に近づく僧もいません。さらに、
「然れば、穢の間卅日は鐘槌も寄て槌かず」
とあります。死による穢れの三十日の間は鐘つきの法師も鐘つき堂で鐘をつこうとしなかったのです。鐘つきは、|時鐘《じしょう》とも言って、朝夕など、法要の始まる「時」を知らせる道具でもあり、その厳かな響きで寺院と庶民をつなぐ大切な役割を担うものです。それよりも死穢は優先されることだったということでしょう。(まあ、実際にはこのときには鐘は盗まれていたからつきたくてもつけないのですが)

このように、平安の人々にとって、死に関わることは忌み嫌われていたことが分かります。
平安初期の律令の細則である『延喜式』には「死」を穢れとする意識が強く見られ、その穢れへの対処法なども示されています。死者が出た場合は、関係のない者は遺体に触れない、また触れた場合は、一定期間は他人に接することを避け、清めを行うという慣習があったとされます。
埋葬後も、現代のような墓参りの風習はなく、草木に覆われ荒れ果てたままになっていたそうです。

延喜式の完成は927年ですから、遣唐使廃止後。遣唐使の廃止により仏教が日本独自の発展を見せはじめた頃です。つまり、死穢は仏教の死生観というよりは貴族のケガレ観に基づくと考えられます。

コロナが世界に流行し始めた2020年当初、「自粛警察」なる人々も登場して未知のウィルスを恐れたように、平安の人々は「死」を恐れたのでしょう。現代のような科学的分析がない当時では、その恐怖もさぞや大きかったと思われます。

ちなみに、この話では、息子を名乗る男たちが死体があるとされる鐘つき堂に入り、「父上はここにおいでになったのか」と突っ伏して泣きますが、これは実際には死体ではないと分かっているからの行動だったのですね。

以下の解説にも平安の死体処置について触れています。

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【参考文献】
新編日本古典文学全集『今昔物語集 ④』(小学館)

この話を分かりやすく現代小説訳したものはこちら

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