巻13第12話 長楽寺僧於山見入定尼語 第十二
今は昔、京の東山に長楽寺という寺がありました。そこで仏道を修行する僧がいました。花を摘んで仏にお供えしようと山深くに入り、あちらの峰、こちらの谷と歩いているうちに日が暮れてしまったので、樹の下で一夜を明かすことにしました。
亥の刻頃(午後9時〜11時頃)から、僧が宿っている傍らで、細く幽かに貴い声で法華経を誦するのが聞こえました。僧は「不思議なことだ」と思い、一晩中きいていました。そして、「昼にはこの辺りに人はいなかった。もしや仙人がいらっしゃったのだろうか」と、よく分からないながらも、貴く聴き入っている間に、いつしか夜もしらじらと明けてきましたので、この声の聞こえてきた方向を尋ねて少しずつ歩み寄って行くと、地面よりほんの少し高く見えるものがありました。「何者かがここに居たのだろうか」と見ていると、夜もすっかり明けて明るくなりました。なんとそれは、苔むした巌(岩)に薋(むばら、イバラ)が這いかかっているのでした。
それでもまだ「あの経を誦していた声は何方から来たのだろう」と訝しく思い、「もしやこの巌に仙人がおられて、誦し給うたのだろうか」と、貴く感じ入ってしばらく見守っていたところ、この巌が突然動きながら高くなっていきます。「なんと不思議なことか」と見ていると、人の姿になって立ち上がりました。見たところ、齢六十歳ほどの尼です。立ち上がるにつれて、薋は全て引き千切られてしまいました。
僧はこの様子を見て恐ろしくなりながら、「これはどういうことなのでしょう」と問いますと、その尼が泣く泣くこう答えました。「私はこの場所にて長い年を過ごしておりましたが、その間愛欲の心を発したことはありませんでした。ところが、ただいまあなたがこちらへいらっしゃるのを見て『男だ』と思っていたところ、悲しいことに、元の姿に戻ってしまいました。何と言っても、人の身ほど罪深きものはありません。これから、また過ぎ去りし年月より永い時間をかけて、元のように無私の静かな心を取り戻すことが出来るでしょうか」と泣き悲しんで、尼は山の奥深くへと歩み去って行きました。
この僧が長楽寺へ戻って語ったことを、弟子の僧が聞いて、世間に語り伝えたということです。
これを聞いても、入定した尼でさえこの有様なのですから、俗世にいる女がどれほど罪深いかは、推し量ることが出来るというものだ、と語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
【解説】 昔日香
※長楽寺…京都市東山区円山町にある寺院。山号は黄台山。本尊は准胝観音。円山公園の東南方に位置する。かつての境内地は円山公園の大部分や真宗大谷派の大谷祖廟の大半の境内地を含む広大なものであった
※入定…結跏趺坐して印を結び、動揺することがない状態(禅定)に入ること

【協力】 いっちー








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