巻12第22話 於法成寺絵像大日供養語 第廿二
今は昔、後一条天皇の御代に、関白太政大臣(藤原道長。関白はいわばニックネームで、道長は関白になっていない)は、寛仁三年(1018年)の三月二十一日に出家されました。
翌年の某月某日、自身が建立した法成寺にて、天皇の御祈願のために、丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の仏の絵像を百幅描かせ、金堂の前の南向きに懸け並べて、供養を行いました。
その百幅の中に、高さ三丈(約9メートル)の大日如来の像がありました。飯室の□阿闍梨に描かせて、中心の本尊として懸けたものです。 その前には長い平張(ひらばり、天幕)を設けました。その下に入道殿(道長)、次男である関白内大臣殿(藤原頼通)、左大臣・藤原顕光、右大臣・藤原公季、ならびに大納言・中納言・参議といった公卿たちが、あますところなく着座されました。その後ろには殿上人たちがみな着座していました。 また、この平張の左右に幄(あく)を張り、多くの僧侶たちの座としました。南側には大太鼓と鉦鼓(しょうこ)を二つずつ飾り立て、さらにその南には絹の幄を二つ張り、唐楽・高麗楽(楽人)の楽屋としました。儀式の様子は、じつにめずらしく、趣深いものでした。
儀式がはじまると、南の大門の外の左右の幄には、多くの僧侶たちが集まってきました。唐・高麗は楽屋から南の大門へ出て、僧侶たちを出迎えます。僧侶たちは楽人を先頭に立て、列をなして入堂しました。南大門の壇の上に僧侶たちが上がり、そこから(境内を)見渡すと、百体の仏の絵像が懸け並べられています。風に吹かれて動く様は、まるで生きている仏のようで、尊いことこの上ありません。庭に立ち並ぶ飾りや幡(はた)が風に吹かれて動く様子も素晴らしいものでした。二つの大太鼓の装飾は光を放つようです。まるで仏の浄土そのものと思われて、尊いものでした。
僧侶たちが(貴人たちの座の方を)見ると、入道殿(道長)がいらっしゃる上座に、香染(こうぞめ、丁子染めの黄赤色)の法衣を着た僧が座っていました。
「あれは、仁和寺の済信大僧正がいらっしゃているのだろう」
僧侶たちはみな(儀式の列に従って)歩んで行きましたが、その場所に近づくにつれ、済信の姿は見えなくなってしまいました。
「もうお立ちになったのか」
そう思いながら、僧侶たちはそれぞれの座に着きました。
誰もがみな、同じようにその僧を見ていました。香炉の箱を座に置いて控えていた従者の僧たちに問いました。
「平張の席に着いておられた、香染の衣の僧はどなたですか」
従者の僧たちは答えて言います。
「そのような方は、まったくいらっしゃっていません」
僧侶たちはこれを聞いて、「不思議なことだ」と思いました。
「それでは、あれは仏が化身して現れたのか。あるいは、昔の大師(弘法大師など)がいらっしゃったのだろうか」
僧侶たちはみな、口々に語り合いました。
もし一人だけが見たということであれば、見間違いだと疑うこともできます。しかしみなが同じように見ているのですから、疑いようもありません。
「世も末(末法)とは言うが、このような尊い奇跡はあるのだ」と言い合いました。後に、入道殿もこのことをお聞きになったでしょう。不思議なことだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
僧侶たちが「あれは済信大僧正ではないか?」と即座に問うたのは、道長と済信の密接な関係を物語っている。済信は道長の護持僧として、病気平癒や出世のための加持祈祷を一手に引き受けていた。この話はその場にいない済信まで引き寄せてしまうほどに、道長の霊力は強大だった、と語っている。
法成寺はその後幾度となく火災にあい、やがて廃寺になった。いくつもの堂宇を備えた大寺であったが、『徒然草』では、もはやわずかな建物と礎石が残るのみだと書かれている。










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