巻12第24話 関寺駈牛化迦葉仏語 第廿四
(①より続く)
その後、この出来事は世間に広く伝わり、都中の人々で参詣しない者はいないと言われるほどになりました。
入道(出家)大相国(藤原道長)をはじめとして、公卿や殿上人に至るまで、参詣しない人は一人もいませんでした。
その中で、小野宮の(藤原)実資という右大臣だけが、参詣なさいませんでした。
閑院の太政大臣・(藤原)公季と申す方が参詣なさいましたところ、下人たちが行き場もないほど多くおりました。そこで、車から降りて入ろうとなさいましたが、それではあまりに軽々しいことのようにお思いになり、車に乗ったまま、牛屋の近くまで車を引き寄せさせました。すると、この牛は、寺の内に車に乗ったまま入ることを、罪深いことだと思ったのでしょうか、にわかに綱を引き切って、山のほうへ逃げ去ってしまいました。
太政大臣はこれをご覧になり、車を降りて座り、「車に乗ったまま入ったのを無礼だと思って、牛は逃げたのだ」とおっしゃって、悔い悲しみ、泣くこと限りがありませんでした。
そのとき、このように懺悔なさるのを「哀れだ」と思ったのでしょうか、牛はだんだん山から下りて来て、牛屋の内に横になりました。そのとき、太政大臣が草を取って牛に含ませようとしました。牛はとくに草も食べず、横になったままでしたが、この草を口に含ませると、太政大臣は直衣(貴族の平服)の袖で顔を覆い、また泣くこと限りがありませんでした。見ていた人々も、尊いことだと感じて泣きました。女房たちも、鷹司殿(藤原道長)・関白殿(藤原頼通)の北の方(妻)をはじめ、みな参詣しておられました。
このようにして、四、五日のあいだ、上中下の人(身分の高い者から中・下の者)まで、多くの人々が参詣に集まり、道に隙間もないほどでした。
そのころ、(関寺の)聖人の夢に、牛が現れて告げました。
「この寺のことは勤め終えた。明後日の夕方に帰ろうと思う」
夢から覚めて、泣き悲しんで、三井寺の僧都のもとに詣でてこれを告げました。僧都は泣く泣く貴んで言いました。
「この寺にも、同じような夢を見た人があった。なんて哀しいことだろう」
これを聞いて、ますます参詣者が増えました。道の隙間もないほどでした。
その日になりました。比叡山や三井寺の人が参り集まって阿弥陀経を読む声が山に響きました。昔の沙羅林の儀式(釈迦入滅の式)が思い出され、悲しいこと限りありません。
夕方に至っても、牛は衰弱する様子を見せませんでした。
「牛は死なず元気なままなんじゃないか」と嘲る不敬な者もありました。
晩に至るころ、臥していた牛が立ちあがり、堂に詣でて、三匝(みめぐり)廻ろうとしました。二周め、とつぜん苦しみ出し、臥しては起きあがり、それを三度くりかえして、三匝を廻り終わりました。牛屋に戻り至って、枕を北にして(北枕にして)臥しました。四本の足を指し延べて、寝入るように死にました。そこに、参り集まった上中下の道俗(出家した人とそうでないと人)の男女は、声を挙げて泣きました。阿弥陀経を読み、念仏を唱え続けました。
参詣の人がみな帰った後で、牛を牛屋の上の方に少し登ったところに土葬にしました。その上に率都婆を立て、柵をつくりました。夏の事ですから、土葬であっても、すこしは臭いがあります。しかし、露ほども臭いはありませんでした。その後、七日ごとに仏経を供養しました。四十九日の法要も行い、翌年の命日まで、仏事を行いました。
この寺の仏は、弥勒でした。しかし、その仏堂も壊れ、仏も朽ち失せてしまいました。人は「昔の関寺の跡だ」などと言って、礎石を見ています。知る人もあり、知らぬ人もある有様にに、横川の源信僧都が申しました。
「なぜ寺をもとのように造らないのか。やんごとなき仏の跡形もないのが、とても悲しい。とりわけこのように(逢坂の)関に坐す仏だから、諸国の人はみな礼拝するだろう。『仏に向かい奉り、しばらく首を低くしていた人ですら、仏になる縁がある。まして、掌を合わせ、一念の心を発して礼する人は、必ず弥勒の世に生まれる』と釈迦仏が説いている。仏の御法を信ずる人は、これを疑ってはならない。これは至要の事である」
横川に□という道心ある聖人がおりました。源信僧都はその人を説得して、寄付を集めさせ仏を造りました。像がようやく仏の形に彫りあがるころ、源信僧都が亡くなりました。聖人は言いました。
「故僧都が言い置いたことだから、ないがしろにしてはならない」
仏師好常にねんごろに語り、つくらせました。
堂は僧都の遺言にしたがい、二階建てになりました。上の階から仏の御すがたtを見ることができるので、道行く人はみな礼して通りました。堂はなんとかできたものの、材木が集まらず、仏像に箔を押すことができませんでした。しかし、牛仏を拝みに来た人多くの人が、寄付をおこないました。このことによって、数々の堂や大門をつくることができたのです。残った寄付をつかって、僧房をつくりました。さらに余ったお金は、供養するために大きな法会を開くために使いました。さらに、壊れたときの修理費用にもあてました。
道を行き違う人は、この寺の仏に礼しないことはありませんでした。たとえ一度でも心をこめて祈った人は、必ず弥勒の世に生まれるべき業を築いたといいます。その功徳を人につくらせるために、迦葉仏は牛の身となって現れたのです。まことに希有で貴きことであると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
源信は『往生要集』の著者として名高い。阿弥陀経が読誦されているところも含めて、ここには初期浄土教のすがたが活写されている。










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