巻十二第二十一話 興福寺に奇蹟が起こった話

巻十二

巻12第21話 山階寺焼更建立間語 第廿一

今は昔、大織冠(藤原鎌足)が子孫のために山階寺(やましなでら、後の興福寺)を造られました、
丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の釈迦如来像と、両脇侍の二菩薩像を造り、北山階(京都市山科区)の邸宅に堂を建てて安置しました。これは、天智天皇が粟津(滋賀県大津市)の都におられたころのことです。
のちに、その御子・淡海公(藤原不比等)の代に、現在の場所に移し建てられました。
場所は変わりましたが、今でも「山階寺」と呼ばれています。

木造釈迦如来坐像(平安時代、興福寺)

それから三百年以上が経ち、永承元年(1046年)十二月二十四日の夜、寺は火事で焼けてしまいました。

当時の藤原氏の氏長者(氏族を代表する者、当時は藤原頼通)は、もとの通りに再建を命じました。
寺の敷地は、周囲の土地よりも亀の甲のように高くなっていたため、井戸を掘っても水が出ません。
そこで、春日野から流れる水を寺の中に引き入れ、諸堂や僧坊で使っていました。

新しい寺を造るにあたり、金堂・回廊・中門・南大門・北講堂・鐘楼・経蔵・西金堂・南円堂・東金堂・食堂・細殿・北室の上階の僧房・西室・東室・中室など、大小さまざまな堂舎の壁を塗る作業がありました。
諸国から集めた人夫たちが水を汲みに行くのですが、二、三町(約200-300メートル)も離れた所から運ぶため、作業が進まず、壁塗りに必要な水が足りませんでした。
行事(工事責任者)たちは困り果てていました。

夏のころ、急に夕立が降りました。

講堂の西の庭に少し窪んだところがあり、水が少したまりました。
人夫たちは「壁土に混ぜよう」とそこから水を汲みましたが、いくら汲んでも水が尽きません。
「これはおかしい」と思い、少し掘ってみると、底から水が湧き出ました。
「なんと不思議なことだ」と思って、三尺(約九〇センチ)四方ほど、深さ数尺ほど掘ると、本物の井戸になりました。
この水を使って壁塗りをすると、遠くまで水を運んでいた時よりもずっと早く作業がはかどり、水も尽きません。
僧たちはこれを見て「ありがたいことだ」と言い、石を積んで井戸を整え、今もなお水が湧き出ているということです。
これが一つ目の不思議な出来事です。

二年の歳月をかけて再建が終わり、堂舎がすべて完成すると、三年目の三月二日に落慶供養(完成法要)が行われました。
藤原氏の長者をはじめ、公卿らも参列し、法の通りに供養が営まれました。
導師は三井寺の明尊大僧正、五百人の僧が読経し、音楽が奏でられ、心を尽くした盛大な法会でした。

その供養の日、仏像を堂内にお納めしようとする寅の刻(午前4時ごろ)、空には雨雲が立ちこめ、暗く星も見えず、時刻を知ることができません。
陰陽師・安倍時親がいたものの、「星が見えないので時を計るすべがありません」と言います。
そのとき、風もない空に、突然、御堂の上だけ四-五丈(十数メートル)ほど雲が晴れ、北斗七星が明るく輝きました。
これで時刻を測ると、ちょうど寅の二つ時でした。
喜びながら仏を堂にお納めすると、星はすぐにまた雲に隠れました。
二つ目の不思議な出来事です。

仏をお納めしてから、天蓋(仏像の上に吊る飾り)を取り付けようとしました。
仏師の定朝が言いました。
「天蓋は大きいものです。これを吊るためには、鈎(かぎ)を打ちつけるための横木を三本、梁の上に渡しておく必要があります。長さ二丈五尺(約7.5メートル)、幅尺九寸(約60センチ)の木です。
しかしそのことを忘れて申し上げませんでした。今さら木を通そうとすれば、足場を築き、天井の壁を壊し、多くの損害が出て、今日の供養には間に合いません」
「これは大変なことだ」

天蓋

皆が騒いでいると、大工の頭領、吉忠という者が言いました。
「私はこの間(部屋)を造ったとき、梁の上に長さ三丈、幅尺九寸の木を上げたまま忘れていました。申告しなかったのは、叱られるのを恐れたからです。その木は、まさに天蓋を吊るべき場所にあるかもしれません」
定朝は大いに喜び、小仏師を登らせて確かめさせると、木はまさに吊り金具を打つべき位置にあり、一寸の違いもなかったのです。
すぐに金具を打ち付けると、まったく狂いなくぴたりと合いました。
三つ目の不思議な出来事です。

世も末(末法の世)とはいえ、このように仏の霊験は明らかなものです。
ましてや目には見えない功徳は、どれほど深いものでしょうか。
世の人々も皆、これを敬い仰ぎ奉ったということです。
このように語り伝えられています。

【原文】

巻12第21話 山階寺焼更建立間語 第廿一
今昔物語集 巻12第21話 山階寺焼更建立間語 第廿一 今昔、大織冠、子孫の為に山階寺を造り給ふ。先づ、丈六の釈迦菩薩并びに脇士二菩薩の像を造て、北山階の家に堂を建て安置し給へり。天智天皇の、粟津の都に御ける時に造られたる也。其れを、大織冠の御子淡海公

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

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今昔物語集 現代語訳

コメント

  1. かん より:

    三番目のは奇跡というか、単に定朝さんがうっかりミスしたのを、指摘すると角が立つので黙ったまま棟梁がちゃんとやっといたよ、ってコトなんでしょうね(笑)

    • ほんやくネット より:

      コメントありがとうございます。
      たぶん実状はそういうことなんだと思います(笑)

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