巻31第28話 藤原惟規於越中国死語 第廿八
今は昔、越中守(えっちゅうのかみ・現在の富山県の国司)藤原為善(ためよし、解説参照))という博士の子に、惟規(のぶのり)という者がいました。
為善が越中守になって任国に下ったとき、惟規は現職の蔵人だったので、一緒について行かず、五位に任じられたのちに下っていきました。
ところが道中で重い病に罹ったのでした。
しかし、そうかといって途中で留まっているわけにもゆかず、何とか我慢して下り着きました。
けれども、父の任国に行き着くや危篤に陥りました。
父・為善は、惟規が下ってくると聞いて喜んで待っていましたが、見ればこのように危篤状態なので、ひどく驚き、この上なく嘆き騒ぎました。
そこで、八方手を尽くして看病したのですが治まらず、希望を失ったので、
「もはやこの世のことを思っても無益だ。来世のことを念ずるがよい」
と言って、学識のある高僧を枕元に呼び、極楽往生を願うために、念仏などを唱えさえよとしました。
そこで僧が惟規の耳に口を寄せて教えます。
「地獄の苦しみはいまや目前に迫って来ましたぞ。その苦しみたるや、口には言い尽くしがたいものです。ところで、死ねばまず中有(ちゅうう・中陰)といって次の生がまだ定まらぬ間は鳥も獣もいない遥かな広野(こうや)をただ一人で行くのですが、その心細さ、この世の恋しさなど、いかに堪えがたいものかを推し量ってください」
と、言ったのですが、惟規はこれを聞くと、苦しい息の下で、
「その中有の旅の途中では、嵐に散りまがう紅葉や、風になびく薄(すすき)の花などの下で鳴く松虫などの声は聞こえないのでしょうか」
と、[ためらい]ながら息も絶え絶えに尋ねたので、僧は憎さのあまり声を荒げ、
「いったい何のために、さようなことをお尋ねになるのか」
と訊きます。
惟規は、
「もしそうなら、それらを見て心を[なぐさめ]ましょう」
と、途切れ途切れに言ったので、僧は、
「まったく狂気の沙汰だ」
と言って逃げ去りました。
父は「まだ息のある間は」と思って、そばに付き添ったまま見守っていると、惟規は両の手を上げて手のひらを重ねるようにします。
何のことか分からず、ただ見ていると、側の者が「もしや何か書きたいと思っておられるのではないか」と気づいて尋ねてみたところ、[うなずい]たので、筆を濡らし、紙と共に与えると、こう書きました。
都にも わびしき人の 数多あれば
なおこの旅は いかむとぞ思ふ
(都にも恋しい人がたくさんいるから、何としてでも今度の旅では生きながらえて再び都に帰りたいものだ)
この終わりの「ふ」の文字を書き終えずに息が絶えたから、父は、
「こう書きたかったのだろう」
と言って、その「ふ」の文字を書き加え、これを形見にしようと取っておいて、常に出して見ては泣いていたので、紙は涙に濡れ、ついには破れ失せてしまいました。
このことを父が京に帰り上って語ったところ、当時のこれを聞く人は心から哀れに思いました。
これを思うに、惟規はどんなに罪深いことだったろうと。
三宝(仏法僧)のことを心にかけて死んだ人さえ、なお悪道を免れることは難しいのに、惟規はまるで三宝のことを考えもしなかったことが悲しく思われるのであります。
こう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
藤原為善の子に惟規はおらず、為時の間違い。
藤原為時(ふじわらのためとき)は正五位下、越後守。三男三女の父、その中で惟規と紫式部は同母のきょうだい(兄または弟)。
藤原惟規は歌人として知られ、寛弘4年(1007)1月に六位の蔵人に任じられた。のち散位(さんに・無職)。従五位下、寛弘8年(1011)に越後で病没している。

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』







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