巻四第三十話 死人の頭を売り歩く男の話

カンボジアのキリング・フィールドのドクロ巻四(全)

巻4第30話 天竺婆羅門貫死人頭売語 第三十

今は昔、天竺に一人のバラモンがありました。多くのドクロをヒモでつないで持ち歩き、王城に入って大声で叫びます。
「おれは死人のたくさんのドクロ貫いて持って歩いている。このドクロを買う人はいないか」
こう叫んでも、買おうという者は一人としてありません。バラモンは悲しみました。それを見てののしり笑う人もあります。

カンボジアのキリングフィールドのドクロ

画像はカンボジアのキリングフィールドのもの

そのとき、ひとりの智ある人が来て、ドクロを買い取りました。バラモンは耳の穴にヒモを通してドクロを持って歩いていましたが、この人はそのようにしません。
バラモンは問いました。
「なぜ、耳の穴にヒモを通さないのだ」
その人は答えました。
「法華経を聞いた人の耳の穴に、糸を通すわけにはいかない」

その後、塔をたて、このドクロを供養しました。天より天人が下り、その塔を礼拝して去りました。
バラモンの願いをかなえるため、必要がないドクロを買い、そのドクロを供養したことを、天人も歓喜したと語り伝えられています。

【原文】
巻4第30話 天竺婆羅門貫死人頭売語 第三十 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

原文にはドクロではなくただ「頭」とある。インドには砂漠があるから、死者の頭が骨にならずミイラ化して干物になるところだってある。だとすればドクロは正確じゃないわけで、どうしようかなと思ったが、もともとこの話、唐代七世紀の仏教書『法苑珠林』にある話で、そこには「髑髏」とあるのだそうだ。これに習い、「頭」は「ドクロ」と訳出した。

もともとバラモン教(仏教やヒンズー教のベース)には、ドクロをお守りとする風習があったという。すなわちこの人は、酔狂でドクロを売って歩いているのではなく、「お守りにどうですか」と言っているわけだ。
スカルリングとか、ドクロをファッションにすることは現代でもめずらしくないが、その淵源のひとつはここに見えている。紀元前からあるんですぜ!

「八万四千の法門」と言われるぐらいで、仏教には本当にたくさんの経典がある。その中で、法華経こそ釈迦の教えの中心(正法)とする宗派は数多くある。

聖徳太子が『法華義疏』を著し、中国天台に学んだ最澄が法華経を至上の教えとして天台宗を開いた。日蓮はこれを尖鋭化して日蓮宗(法華宗)を開いている。
志村けんがギャグにしたうちわ太鼓たたきながらお題目を唱えるたいへん陽気な宗派は日蓮宗の一派である。文句は「南無妙法蓮華経」、法華経に帰依しますという意味だ。

志村けん

これ、志村けんはやめちゃったみたいだ。番組名にもなった「だいじょうぶだぁ」ってここから来てるんだから、やめるのは不自然。たぶんどっか宗教団体からやるなって声があったんだろう。

二・二六事件の北一輝も、満州事変の石原莞爾も熱心な法華経信者であったし、創価学会とは日蓮の信者団体である。その創価学会を支持母体とする公明党が与党なんだから、法華経とは聖徳太子以降、現代にいたるまで日本を支配している教えだと言っていいだろう。

ちなみに、このテキストの原文は日蓮よりずっと前に書かれている。なんか勝った気がするのは俺だけか。

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