巻二十四第三十八話 並はずれた歌人・藤原道信

巻二十四

巻24第38話 藤原道信朝臣送父読和歌語 第卅八

今は昔、左近の中将・藤原道信(ふじわらのみちのぶ)という人がいました。
法住寺(ほうじゅうじ)の為光(ためみつ)の大臣(おとど)の子で、一条天皇の御代の殿上人であります。
容貌・人品をはじめ、風雅な心の持ち主で、和歌をたいそう上手にお詠みになりました。

法住寺(京都市)

まだ若い頃、父の大臣が亡くなられ、嘆き悲しみましたが、甲斐もなく、いつしか月日も過ぎて、年が替わりました。
悲しみは尽きませんが、限りあることとて、喪服を脱ぐことになり、道信の中将は、このように詠みました。

限りあれば 今日脱ぎ棄てつ ふじ衣
果てなきものは 涙なりけり
(限りあることとて今日、喪服は脱ぎ棄ててしまったが、悲しみの涙だけは限りなく流れ続けることである)

と言って、泣きました。

また、この中将が殿上の間で大勢の人びとと、この世のはかなさについてさまざま話し合っているとき、「朝顔の花を見る」という題でこう詠みました。

朝顔を なには哀しと 思いけむ
人おも花は さこそ見るらめ
(朝顔を今までどうして儚いものと思っていたのであろうか。花のほうでも、人を儚いものと思って見ることであろう)

また、この中将は、屏風の絵に、野山のあたりに梅の花が咲き、女がたったひとり住んでいる物寂しい家を描いてあるところを、このように詠みました。

見る人も 無き山里の 花の色は
なかなか風ぞ おしむべらなる
(わざわざ見に来る人もない山里の色美しい花のあたりは、花を散らすはずの風がかえって花を惜しんで吹いているかのようだ)

また、この中将が九月の頃、ある女のもとを訪れましたが、親が隠したので、女は居るのに会うこともできず帰って来て、その翌日、このように歌を詠んで遣りました。

よそなれど うつろう花は 菊の花
なにへだつらむ 宿の秋霧
(放っておいても自然に色あせてゆく花、それは菊の花。それなのに、どうして宿の秋霧(親)はわざわざ菊(娘)を隔てて見せないのだろうか)

また、この中将が菊の盛りの頃、山里に行こうとして、人に言づけてこう詠んで遣りました。

我が宿の 垣根の菊の 花盛り
まだうつろわぬ ほどに来てみよ
(我が家の垣根の菊は今が真っ盛りですよ。色あせぬうちに来て、ご覧なさい)

また、この中将が八月ごろ、桂にあった所領に出かけましたが、月がたいそう明るく水に映っているのを見て、こう詠みました。

桂川 月の光に 水まさり
秋の夜深く なりにけるかな
(桂川は月の光を受けて水かさが増したように、きらきらと輝いている。ああ、秋の夜もすっかり更けたことだ)

そこから帰って、三日ほどしてから、一緒に桂で月見をした人のもとに、こう詠んで遣りました。

思ひいづや 人めながらも 山里の
月と水との 秋の夕暮れ
(あなたは思い出しますか、誰一人いない静かな山里で見た、あの美しい月と水との秋の夕暮れの眺めを)

また、この中将が、弟の公信(きみのぶ)の朝臣(あそん)と共に壺坂という所に行ったとき、道に萩が咲いているのを見て、こう詠みました。

老いの菊 衰へにける 藤袴
錦残りて ありとこたへよ
(菊はもうすっかり老い衰えてしまったのに、藤袴だけは美しく咲いている。だから、藤袴よ、まだきれいな錦は残っているのだと答えてくれよ)

また、この中将は、極楽寺のあたりに紅葉見物に行こうと約束した人が来なかったので、こう詠んで遣りました。

吹く風の 便りにもはや 聞きてけむ
今日も契し 山の紅葉を
(吹く風の便りに、もはや聞いたことでしょう。今日、一緒に見に行こうと約束した山の紅葉が今、盛りであるということを)

真正極楽寺(京都市)

また、この中将は奝然法橋(ちょうねんほっきょう・唐に赴き、一切経を持ち帰った東大寺の僧)という人が唐に行くとき、中将のもとを訪れ、菊の花を見て、
「今度、お会いできるのは、何年先の秋でしょうか」
と言ったのを聞いて、中将はこう詠みました。

秋深み 君だに菊に 知られけり
この花ののち 何をたのまむ
(秋たけて咲く菊を見ては、別離の悲しみなど超越されたはずのあなたでさえ、再会のおぼつかなさを思い知りなさいましたが、私も同じようにこの菊が終わったあと、あなたとの再会は期待できないように思われます)

また、この中将は、ある方の所に大破子(おおわりご・今の弁当箱兼重箱)というものを作って奉ったのですが、子(ね)の日(び)の遊びを描いた絵に、こう書きつけました。

君がへむ 世々の子日を 数ふれば
かに書く松の 生いかはるまで
(貴方様がこの後、迎えなさる年ごとの子の日の数を数えると、何はともあれ、小松が再び生い代わるまでのたいへんな長寿を保たれることでございましょう)

また、この中将は、女院(円融天皇皇后、藤原詮子)が長谷寺に参詣され、お帰りになろうとして、まだ夜も深かったので、しばらく待っておられたとき、おつきの多くの人びとが有明の月の素晴らしいのを眺めていました。
そのとき、この中将はこう詠みました。

そむけども なをよろず世を 有明の
月の光ぞ はるけかりける
(たとえ出家なされても、やはり女院のご栄光は有明の月のように、はるか万世まで照らしておられることだ)

人びとは口をきわめて、この歌を褒め称えました。

また、この中将は、宮中に仕えていたある女が、
「わたくしが宮中を退出するときは、必ずお知らせします」
と、約束していたのに、何も知らせずに退出してしまったので、翌朝、このように詠んで遣りました。

天の原 はるかに照らす 月だにも
いずるは人に 知られこそすれ
(大空をはるかに照らす月でさえ、出るときには人に知らせるものなのに、あなたは何故、知らせてくださらなかったのですか)

また、この中将は、藤原為頼朝臣(ふじわらのためよりのあそん)が遠江守(とおとうみのかみ・静岡県西部の国守)になって任国に下ったとき、途中ある所から使いに託して扇を贈って寄越しましたが、その使いと行き会い、こう詠んで遣りました。

別れぢの よとせの春の 春ごとに
花の都を 思ひをこせよ
(二人別れている四年間、毎年春がきて花が咲くごとに、花の都にいる私のことを思い出してほしい)

また、この中将は、遠い田舎に下って行ったある人にこう詠んで遣りました。

たれが世に 我が世もしらぬ 世の中に
待つほどいかに あらんとすらむ
(あなたであろうと私であろうと、誰一人どうなるか分からぬこの世の中に、あなたの帰りを待っている間、私はどう過ごしていたら良いのでしょう)

また、この中将は、藤原相如朝臣(ふじわらのすけゆきあそん)が出雲守(いずものかみ)になって任国に下るとき、こう詠んで遣りました。

あかずして かくわかるるを 便りあらば
いかにとだに もとにをこせよ
(官命ゆえ、やむを得ずこうして別れねばならないが、何かよいついでがあったなら、おまえは達者でいるかとぐらいの便りを寄越してくださいよ)

また、この中将は、[藤原]国範朝臣(くにのりのあそん)の石帯(せきたい・束帯のとき身に着ける玉飾り付きの革の帯)を預かっていましたが、それを返して遣るとき、こう詠んで遣りました。

行く先の 忍草にも なるやとて
露の形見を 置かむとぞもふ
(将来、あなたを忍ぶよすがにもなるかと思い、これをわずかな形見として、私の手元に残しておきたい気がします)

また、この中将は、屏風絵に、はるかに沖に出た釣り船を描いたところを見て、こう詠みました。

いづかたを さしてゆくらん おぼつかな
はるかに見ゆる あまの釣り船
(いったいどこをさして行くのであろうか、気がかりなことだ。はるか遠く心細げに見える、この釣り船は)

また、同じ屏風絵に、霧が一面に立ち込めた中を行く旅人を描いたところを見て、こう詠みました。

あさぼらけ 紅葉ば隠す 秋霧の
たたぬさきにぞ 見るべかりける
(美しい紅葉は、夜明け方の朝霧がまだ隠してしまわない前に見るべきであった)

また、この中将は、ある人が絵を寄越して、
「これを御覧ください」
と言った物に、物寂しい山里、そこに小川が流れ、物思わしげな男のいる所が描いてあるのを見て、このように歌を詠み、返して遣りました。

流れくる 水に影見む 人知れず
物想ふ人の 顔や変はると
(この流れに我が姿を映してみよう。もしかしたら、人知れず思い悩んでいるひとの顔は、顔つきが変わってしまっているのではないかと)

絵の持ち主はこれを見て、たいそう感嘆した、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻24第38話 藤原道信朝臣送父読和歌語 第卅八
今昔物語集 巻24第38話 藤原道信朝臣送父読和歌語 第卅八 今昔、左近中将に藤原道信と云ふ人有けり。法住寺の為光大臣の子也。一条院の御時の殿上人也。形ち有様より始て、心ばへは糸可咲て、和歌をなむ微妙く読ける。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

藤原道信は、右大臣・藤原師輔の九男で太政大臣となった為光(ためみつ)の子。母は伊尹の娘。つまり、藤原北家の高位貴族で、中古三十六歌仙のひとり。 侍従、右兵衛佐、左少将を経て、正暦二年(991)九月に左中将。翌三年に美濃守を兼任し、最終官位は、従四位上。正暦五年(994)七月十一日に没。

【参考文献】 小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

 

巻二十四
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