巻三十一第二十三話 多武峰が比叡山の末寺になる話

巻三十一

巻31第23話 多武峰成比叡山末寺語 第廿三

今は昔、比叡山に尊睿律師(そんえいりつし)という人がおりました。
長年、山に住み、顕密(けんみつ)の二教を学んで高僧の誉れが高かい方でした。
また、優れた観相家(かんそうか・人相見)でもありました。
のちには京に下って、雲林院(うりんいん)に住んでいました。

ところで無動寺(むどうじ・比叡山東塔の別院)の慶命座主(きょうみょうざす)がまだ年若く、阿闍梨(あじゃり・天台、真言において密教の行法・儀礼に精通する僧の位)であったころ、この尊睿律師が慶命阿闍梨を見て、

「御房は格別高貴な相をすべて備えた御方じゃ。必ず、この山の仏法の指導者となるべき相が、はっきりと現れておる。されば、拙僧はすでに年老い、この地位を保っても何の甲斐もない身ゆえ、拙僧の僧綱(そうごう)の位を御房にお譲り申そう。御房は関白殿(藤原道長)に親しくお仕えして、お覚えめでたい方じゃ。この旨を言上なされよ」
と言ったので、阿闍梨は心中「嬉しい」と思い、このことを殿に申し上げました。
殿と申すのは、御堂(みどう)のことであります。
殿は慶命阿闍梨を寵愛なさっていたので、このことをお聞きになり、
「それはまことに結構なことである」
と仰せられて、慶命阿闍梨は尊睿の[推挙]により、律師になされました。

無動寺明王堂(滋賀県大津市)

その後、尊睿は求道心を起こして比叡山を去り、多武峰(とうのみね)に籠って、ひたすら後世の往生を願い、念仏を唱えていました。
多武峰はもともと御廟(ごびょう・藤原鎌足の廟墓)があり、それは尊いのですが、顕密の仏法は行われていませんでした。
ところが、この尊睿が多武峰に住み、真言の密法を広め、天台の教義を教え始めてから、学僧が多く輩出して、法華八講を行わせ、三十講を始めるようになり、いつしか仏法隆盛の地となりました。
そこで尊睿は、「ここをかように仏法の地とはしたが、いまだこれという本寺がない。同じことなら、我がもといた比叡山の末寺として寄進しよう」と思いつき、かの慶命座主がとりわけ関白殿のお覚えめでたく、親しくお仕えしているので、この座主を通じて殿の御内意をうかがったところ、殿はこれをお聞きになって、
「まことに良きことである」
と仰せられ、
「さっそく末寺とせよ」
と仰せ下されたので、多武峰を妙楽寺(みょうらくじ・談山神社の前身である多武峰の別称)と名づけ、比叡山の末寺として寄進しました。

そのとき、山階寺(やましなでら。興福寺の別称。興福寺は藤原氏の氏寺)の多くの僧徒がこのことを聞き、
「多武峰は大織冠(だいしょくかん・藤原鎌足)の御廟である。だから当然、山階寺の末寺であるべきだ。どうして延暦寺の末寺などになされてよかろうぞ」
と騒ぎだして、関白殿にこのことを訴え申したところ、殿は、
「先に延暦寺の末寺とすべき由の申請があったので、すでに許可を与えてしまったぞ」
と仰せられて、ご承諾されなかったので、その申し出はかなわずに終わりました。

されば、後悔先に立たずという諺の通りでありました。
今も昔も、いったん下された仰せ言は、このように変えられないものなのであります。
山階寺が先に申請していたならば、山階寺の末寺になっていたことでしょう。
何事にも適切な機会というものがあるのだから、すでに仰せ下されて後に申し出たところで、かなえられるはずがありましょうか。
それゆえ、多武峰は比叡山の末寺として、今でも天台の仏法が栄えているのです。

そこで、かの尊睿を多武峰の寺院創立者というのだ、とこう語り伝えているということです。

談山神社(奈良県桜井市多武峰)

【原文】

巻31第23話 多武峰成比叡山末寺語 第廿三
今昔物語集 巻31第23話 多武峰成比叡山末寺語 第廿三 今昔、比叡の山に尊睿律師と云ふ人有けり。年来、山に住して顕密の法を学して止事無かりける者也。亦、極たる相人にてなむ有ける。後には京に下て、雲林院にぞ住ける。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

尊睿律師は天台座主・義海の弟子で、寛和2年(986)10月に横川(比叡山のエリア)恵心院の阿闍梨になり、長徳4年(998)10月、権律師に任じられ、多武峰第八代座主となる。長保5年(1003)、12月にそれを辞して多武峰に籠り、寛弘4年(1007)、没する。

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』

巻三十一
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今昔物語集 現代語訳

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