巻4第37話 執師子国渚寄大魚語 第卅七
今は昔、天竺の執師子国の西南、目がとどく範囲に、絶海の孤島がありました。500余の家が漁をして生活しており、仏法を知らなかったといいます。
あるとき、島に数千の大魚がやってきました。島の人はこれを見てたいそう喜びました。近くで見てみると、魚たちはまるで人のように「阿弥陀仏」と唱えています。漁師たちは魚がなぜその名を唱えているかを知らず、ただ魚がそう言っているので、この魚を阿弥陀魚と名付けました。
漁師たちが「阿弥陀魚」と唱えると、魚は岸に近くに寄ってきます。彼らはしきりに阿弥陀魚と唱え、魚を寄せました。寄ってくれば殺されるにもかかわらず、魚はまったく逃げませんでした。
とてもおいしい魚でしたが、名を唱える数によって味が異なるのです。名を多く唱えると、魚はとても美味です。しかし、あまり名を唱えないと、魚はすこし辛く苦い味がしました。そのため、その海岸一帯は「阿弥陀仏」と唱える声でいっぱいになりました。
(ここは「阿弥陀魚」でなく「阿弥陀仏」。解説参照)
やがて、はじめて魚を食べた人が亡くなりました。その三か月後、彼は紫の雲に乗って光明を放って現れ、こう告げました。
「私は魚を捕った者の長老である。命が尽きて、極楽世界に生まれた。魚のおかげで、阿弥陀仏の御名を唱えたからだ。魚は阿弥陀仏の化身である。仏は、われわれが仏法を知らぬことをあわれんで、魚となり、身を食わせることで念仏を勧めたのだ。私はこの縁によって浄土に生まれた。疑わしいと思うなら、魚の骨を見るがいい」
食べ終わった魚の骨は一カ所に捨ててありました。人々が見たとき、それはすべて蓮の花に変わっていたのです。人々はみな慈悲の心を起こし、殺生をせず、阿弥陀仏を念じるようになりました。彼らはみな、浄土に生まれました。
(すべての人が浄土に生まれたので)島には誰もいなくなり、荒れ果てていました。執師子国の獅子賢大阿羅漢が神通力でかの島に至り語り伝えたといいます。
【原文】
巻4第37話 執師子国渚寄大魚語 第卅七 [やたがらすナビ]
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
なぜスリランカの話が多いのか
執獅子国とはセイロン島(現在のスリランカ)にあった国の名前。この話の舞台はその近隣の孤島になっている。
インドは広い。海を知らずに一生を終える人も多い。釈迦も生涯、海を見ずに終わった人である(セイロン島で説教したという伝説はあるが、たぶん伝説だ)。したがって、多くの物語は大陸で生まれる。舞台も大陸になるのが自然だろう。
にもかかわらず、『今昔物語集』にはセイロン島の話がよく取り上げられている。
おそらく、大陸の話より島の話ほうが日本人には理解しやすいためだろう。
そして誰もいなくなった
この話でおもしろいのは、島の全員が阿弥陀仏の名号を唱えたために極楽往生して、島には誰もいなくなったと語られていることだ。
動物に化身した阿弥陀仏が名を唱えることを求め極楽に誘うのは前話も同じである。しかし、誰もいなくなったと言うことはできない。陸続きで人の往来がないのはどう考えても不自然だし、昔の話にしても「じゃあ今、人がいるのはどうしてよ」というツッコミが入るからだ。そのため、前話ではメインのキャラクター(王など)は国に残っている。
だがこの話は孤島が舞台である。自給自足していることもさりげなく語られている。ここは交易なき孤立した島なのだ。
全員が戒を守り極楽往生すれば島には人がいなくなる。たぶん、この話はそれを描くことが主眼なのだろう。阿弥陀仏にすがればこんな苦しい世に住む者はいなくなるぜ、と語りたいのだ。
そういやアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』も絶海の孤島の話だったな。
ところで、スリランカは仏教国といわれているが、多くの人に信仰されているのは上座部仏教である。大乗仏教が差別的に「小乗」と呼んだ教えだ。カンボジア、タイ、ミャンマーなど、仏教国の多くはこれを信仰している。
(大乗/小乗とはなにか)
阿弥陀仏は大乗仏教の仏である。したがって、今スリランカに住んでいる人に阿弥陀仏の名を言う人はほとんどいないのだ。当然その近隣の孤島にもいないだろう。
「阿弥陀仏と唱える者はいなくなった」というのは、その現状と符合していておもしろい。
この話は執獅子国(スリランカ)の阿羅漢が神通力で知り得たということになっているが、阿羅漢とは聖者というような意味で、上座部仏教にもいる。したがってこれも、現状と合っているわけだ。偶然だと思うけど。
「阿弥陀魚と唱える」
この話は漢籍『三宝感応要略録』に見える話だという。『今昔物語集』はここからとった話がとても多い。
文中、「阿弥陀魚と唱える」とあるのは『今昔』の誤りだろうということだ。『三宝感応要略録』の同じ箇所は「阿弥陀仏」と記載されている。
コメント