巻12第10話 於石清水行放生会語 第十
今は昔、八幡大菩薩が前生でこの国の帝王だったとき、軍をひきいて自ら出陣し、多くの命を奪いました。
はじめ大隅国(鹿児島県)に八幡大菩薩としてあらわれ、次に宇佐の宮(宇佐八幡宮、大分県宇佐市)に遷らせ給い、石清水にも跡を垂れられました。多くの僧俗の神人(神に仕える人)に命じて無数の生類を買い、放生するためです。朝廷もまた御託宣によって、諸国に放生のわりあてをして、その御願を助けました。このことで、一年ではかりなく多くの放生が行われるようになりました。
毎年八月十五日には、大菩薩が社前より宿院に下られるとき、放生の数を申し上げます。そのとき大きな法会をひらき、最勝王経を講じます。この経には流水長者(解説参照)の放生の功徳を、仏が説かれているからです。そのことから、この会を「放生会」といいます。
その儀式の壮麗なことは、はじめて大菩薩が降りたったときのようです。朝廷もこの御行を貴び、行幸とともに、上卿・宰相から、弁・史・外記など、みなが参り事を行いました。六衛府の陣も、兵仗(武具)を帯して仕え、行幸と異なりません。まして僧たちは威儀を調えた請僧です。唐・高麗の音楽を奏します。法会の後には相撲が行われ、八幡大菩薩はその日のうちにお戻りになります。たいへん貴い会です。心ある人は、この日を知って放生を行うべきです。大菩薩がみずからの御願を貴び、あわれに感じ喜ばれること、疑いありません。
この国(日本)はもとより大菩薩の加護によって成る国です。この放生会の日には、もっぱら参り会い、礼拝するべきです。この日は、正しく御願によって、大菩薩が天から下られます。感にたえないことです。
昔、大菩薩が宇佐の宮にいらっしゃるとき、大安寺の僧の行教という人が宮に参りました。大菩薩は行教に語りました。
「私は王城を護るため、近くにうつりたいと思う。おまえとともに参りたい」
行教はこれを聞いて、謹んで礼拝しました。たちまちに行教の着ている衣に、金色の三尊(阿弥陀三尊)の姿がうつりました。行教はこれを大安寺の房に安置し、かぎりなく恭敬供養しました。
その後、大菩薩は今の石清水の宮に遷られました。御託宣によって所を撰び、宮より皇に星の光をさし、そこに宝殿を建造しました。行教はその後も御託宣を受けつづけたと語られています。
行教の衣は今でもかの宮にあります。行教の大安寺の房は南塔院といいますが、そこにも大菩薩はしばらくいらっしゃっいましたから、宝殿を建造して祝いました。そこでも放生会が行われています。また、宇佐の宮でも、同日に放生会が行われています。この放生会の功徳はたいへん貴いものです。放生会は、さまざまな国で大菩薩をまつっているところで行われました。
行教は特別な人でありました。さまざまなことを大菩薩より承ったので、放生会も護ったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
現在、八幡大菩薩と呼ばれる仏はない。
ウチの近くに八幡神社あるよ、という人は多いだろう。だが、そこでまつられているのは八幡神(日本の神)であって、大菩薩というインドにルーツがある名前ではない。明治政府によって神仏習合が禁じられたためである。
当然のこと、八幡宮/八幡神社ではこの話で語られているような仏経を講じるイベントは開催できなくなった。「放生会」という名も別の名に改められ、お祭りとして存続しているケースが多い。
放生もまた、インドにルーツをもつ概念である。
ここで語られている流水長者とは、『金光明最勝王経』長者子流水品(品は章の意味)の主人公、釈尊の前世である。干ばつにあい、二人の子とともに池の魚の命を救った。この故事が放生会となった。
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