巻20第10話 陽成院御代滝口行金使習外術語 第十
今は昔、陽成天皇の御代(876-884)に、滝口の武士(宮中警護部隊)で、陸奥の国に金(砂金)を得るために遣わされた道範という者がありました。道中、信濃国のとある郡司の家に宿泊しました。郡司は道範の来訪を待っていて、おおいに歓待しました。食事など、すべてが終わると、郡司は家来とともに家を出ていきました。
旅の宿のせいか寝付かれませんでしたので、やおら起きあがって見て歩くと、郡司の妻の部屋がありました。のぞきこむと、屏風や几帳などが立ち並び、畳がひいてあってとても清潔です。二段づくりの厨子棚など、見た目よく配置してあります。虚薫(そらだき)でしょう、ほのかによい香りがただよってきます。田舎にもかかわらずこのようにしてあるのを、心にくく思ってさらにのぞいてみますと、年の頃は二十余歳、頭つきや姿がほっそりとして、額の形のたいへん美しい女性がおりました。「ここはあまりきれいじゃない」というような欠点のない女性です。横になった姿もとてもきれいでした。
道範はとても見過ごすことができませんでした。あたりに人もなかったので、近づいていきましたが、とがめる人もありません。遣戸を開いて部屋に入っていっても、「誰だ」といわれることもありません。
几帳の後ろに火ともしてありましたから、部屋は明るくなっていました。歓待してくれた郡司の妻をどうにかするのは、うしろめたい気持ちがないわけではありませんが、女のすがたを見ては、とてもがまんができませんでした。
女に近寄り、添い寝しましたが、彼女は特別に驚く様子も見せませんでした。近くによるとますます美しく、口をおおって横になった顔は、表現ができないほどです。道範は喜びました。
九月の十日のころ(新暦の十月)ですから、多くの衣をつけているわけではありません。紫苑色の綾の衣を一重つけて、濃い袴をはいています。体につけた香もかぐわしく、周囲のものも香るほどです。道範は服を脱ぎすてて、女の懐に入ろうとしました。女は当初は拒んだものの、強く抵抗することもなく、男を招き入れました。
そのとき、マラ(門構えに牛、男性器)がかゆかったので、手をそえてみると、毛ばかりあってマラが消えているのです。驚いてもう一度探ってみましたが、頭をさわったとき髪が手にふれるのと同じ感触でした。大いに驚いて、美女と同衾していることも忘れてしまいました。女は、男がこのように驚きあわてている様子を見てほほえみました。道範はもとの寝所にかえり、探ってみましたが、やはりありませんでした。
奇異に思ったので、家来を呼んで言いました。
「あの部屋に美しい女がいる。私も行ってきたが、たいへんよい。気に病むことはない。おまえも行くといい」
家来は喜んで女のもとに行きました。しばらくすると、この家来が戻ってきました。不思議そうな顔をしています。
「こいつもやられたにちがいない」
そう思いましたから、別の家来を呼び、同じように勧めてみました。やがてその家来も戻ってきて、空を仰ぎ、化かされたような顔をしています。
結局、七、八人の家来を女のもとに送りました。みな戻ってきては、同様に浮かない様子をしています。つくづく不思議に思っていると、夜が明けてきました。道範は昨晩、この家の主が歓待してくれたのをうれしく思っていましたが、このことがとても恐ろしく思えたので、夜明けとともに出立しました。
七、八町(約800メートル)ほど行くと、背後で呼ぶ声がありました。見ると、馬に乗って馳せて来る者があります。昨晩、給仕をしてくれた郡司の家来です。白い紙に包んで何かを捧げ持っています。道範は馬を引いて、
「それは何だ」
とたずねました。
家来は答えました。
「これは、郡司が『奉れ』と命じた物です。なぜこのような物を棄てて行かれます。今朝のお食事なども用意しておりましたが、急いで出立され、これも落として行ってしまいました。それで、拾ってお持ちしたのです」
紙には、ちょうど松茸を包んであるように、マラが9本包まれていました。
奇異に思い、家来たちを呼び寄せました。家来たちのマラはそこにありました。
次の瞬間、それは消えていました。マラを持ってきた使者はすぐに馳せ帰りました。
そのときになって家来たちは、「昨晩こういう事がありました」と語りはじめたのです。
探ってみると、元あった場所にマラはありました。
その後、陸奥国に行き、金を請け取った帰り道、ふたたびこの信濃の郡司の家に宿泊することになりました。馬・絹などを供すると、郡司はとても喜びました。
「これは、どういうおつもりで下さるのですか」
道範は、近づいて郡司に言いました。
「たいへん恥ずかしいことですが、以前こちらに参ったとき、とても不思議なことがあったのです。あれは、どういうことですか。気になって仕方がないのです」
郡司は、たくさんの物をもらったので、隠すことなく、ありのままに言いました。
「私が若いころ、この国のさらに奥の郡に侍る郡司がありました。年老いた方だったのですが、妻は若く、私は彼女に近づきました。そのとき、マラを失ったのです。不思議でなりませんでした。それが老郡司の術だったのです。私は彼に頼み込み、教えを乞いました。あなたも習いたいと思うならば、お教えしましょう。ただし、今はお仕事の帰りでとても多くの公物を持っていますから、いちど京に上ってそれを届けて、またこちらに下り、心静かに習うのがよいでしょう」
道範は言われたとおり京に上って金などを奉り、暇をもらって下りました。
多くの贈り物をとどけますと、郡司はとても喜びました。
「精一杯お教えしましょう。ただし、これは簡単に習うことができるものではありません。七日間、堅く精進をして、毎日水を浴び、体を浄めて習う必要があります。明日より精進を始めるといいでしょう」
道範は翌日より精進をはじめ、毎日水を浴びて体を浄めました。
七日後の夜、郡司と道範は、たった二人で深山に入りました。大きな河の流れる辺りに行き、
「決して三宝(仏法僧)を信じない」
と願を発しました。罪深い誓言をしたものです。
郡司は言いました。
「私はこれから、河の上流に参ります。上流からさまざまなものが流れてきますが、鬼であろうと神であろうと、これをしっかりと抱きしめて、離さないようにしてください」
しばらくすると、上流の空がかき曇り、雷が鳴り響き、風が吹き、大量の雨が降りました。河の水量が増しました。
やがて、上流から、一抱えもある頭を持ち、鋺(かなまり)を入れたような目をした大蛇が落ちてきました。頸の下は紅色で、上は紺青・緑青を塗ったように、つやめいて光っています。
「上流から来るものを抱け」とは言われましたが、恐ろしくてできませんでした。草の中に臥し、隠れてやりすごしました。
しばらくして、郡司がやってきました。
「(上流から来るものを)抱くことができましたか」
「おそろしくてできませんでした」
「残念なことです。それではこの術を習うことはできません。ともあれ、もう一度試してみましょう」
郡司はそう言って、ふたたび上流にのぼっていきました。
しばらくすると、四尺(約120センチ)ばかりの牙を生やした大猪が、石を噛み砕き、火花を散らし、毛を逆立てて走りかかり食いついてきました。とてもおそろしく思いましたが、死んだつもりで抱き寄せてみると、三尺(約90センチ)ほどの朽木を抱きしめていました。
とてもねたましく、悔しく思いました。
「はじめに来た大蛇も、抱き寄せればこういうものだったのだろう。なぜ抱きつかなかったのだろう」
やがて、郡司がやってきました。
「どうでした」
「今度はうまくいきました」
「残念ながら、最初のものを抱き寄せられなかったので、例のマラを消失させる技をお教えすることはできません。ただし、次はできたのだから、その範囲で可能なことを教えましょう」
とてもくやしく思いましたが、習える術だけを得て帰りました。
京に帰ると、術をつかいました。滝口の同僚がはいている沓(くつ)を、犬の子に変えてみせました。古い藁沓(わらぐつ)を三尺(約90センチ)ほどの鯉に変え、大盤(食事をするテーブル)の上に泳がせるなどしました。
天皇はこれを知り、道範を御所に召して、術を習いました。御几帳(部屋の区切り)に、賀茂の祭の行列を通らせるなどして、人を驚かせました。
しかし、世の人はこれを喜びませんでした。身分の低い者ならまだしも、帝王が三宝(仏法僧)にそむく術を習ってこのようなことをするのを、人々は批判しました。罪深いことをなさったせいかもしれません。天皇は狂気の人となりました。
天狗(仏教以外の神)を祭って、三宝を敬わないのは罪です。人と生まれることは難く、仏法に会うのはさらに難しいことです。人と生まれ、仏法に会いながら、仏道を棄て、魔界に趣くこと、宝の山に入って、何も得ずに出て、石を抱いて深い淵に沈み命を失うようなものです。仏道にそむくようなことは決してしてはならない。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
陽成天皇は狂気の人として有名だった。
天皇在位のとき、宮中に殺人事件が起こった。陽成天皇はなんらかの形でこの事件に関与していたといわれている。奇行が多かったと伝えられているが、この事件から生まれた噂であったかもしれない。
たいへんな長寿で、天皇に在位していた期間はたった8年だが、上皇の期間は65年、歴代一位となっている。
七話の染殿后といい、狂気の噂を立てられる人って、長命なのかもしれない。
この話は宇治拾遺物語第106話にもほぼ同じ話があるが、宇治拾遺では男性器の呼称をマラではなく「物」と呼ぶなど、上品に(遠回しに)述べられている。
マラとは古代インドの悪魔マーラから来ているという説がある。
「魔」という漢字はマーラ(Mara)を訳すためにつくられたものだ。
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