巻二十第三十三話 吉志火麿、母を殺そうとして報いを受ける

巻二十

巻20第33話 吉志火麿擬殺母得現報語 第卅三

今は昔、武蔵国多磨郡鴨郷(むさしのくにたまのこおりかものさと、神奈川県)に、吉志火丸(きしのひまろ)という者がいました。
その母は、日下部真屓(くさかべのまとじ)であります。

聖武天皇の御代に、火丸は筑前守□□という人の供をして筑前国(ちくぜんのくに・現在の福岡県北部)へ行き、三年間その地にいました。
母は火丸について行ったので、火丸はその国で母を養っていました。
火丸の妻は故郷にとどまって留守宅をまもっていましたが、火丸は妻を恋しく思い、「おれは妻のもとを離れて久しく会っていない。だが、お許しがないので、会いにゆくことができない。だから、おれはこの母を殺して、その服喪の期間中、暇をもらって故郷へ帰り、妻と共に過ごそう」と考えました。

母はもともと慈悲心があり、常に善根を積んでいました。
そこで火丸は母に向かい、「ここから東の方の山の中に、七日間、法華経を講ずる寺があります。行って聴聞なさったらいかが」と誘いました。
母はこれを聞いて、「それは願ってもないことです。さっそくでかけましょう」と言って、信仰心を起こし、湯浴みをして身を清め、火丸と一緒にでかけ、はるか遠くの山の中まで足を運びましたが、仏事を営むような山寺は見えません。

やがて、人目を遠く離れた所に来たとき、火丸は母を睨みつけ、恐ろしい顔つきになりました。
これを見た母は、「おまえはどうして、そんなにこわい顔をするのです。鬼でも憑いたのかしら」と言います。
すると、火丸は刀を抜き放ち、母の首を切ろうとするので、母は子の足元にひざまずいて言いました。
「人が木を植えるのは、果実を取ると共に、木陰で休むためです。人が子を育てるのは、子の力によって養ってもらうためです。それなのに、我が子であるおまえは、思いもよらず、どうして今、私を殺そうとするのです」
火丸はこの言葉を聞いても許そうとせず、なお殺そうとします。
そのとき母は、「おまえ、ちょっとお待ち。私は言い残して置くことがあります」と言って、着ている着物を脱いで三つに分けて置き、火丸に、「この着物の一つは、私の長男のおまえにあげよう。もう一つは、私の次男であるおまえの弟にあげなさい。あとの一つは、末っ子の弟にあげなさい」と遺言しましたが、火丸は刀でその母の首を切ろうとします。

その瞬間、突然、地面が裂け、火丸はその裂け目に落ち込みました。
母はこれを見て、とっさに火丸の髪をつかみ、天を仰いで泣き叫びます。
「この子には鬼が取りついたのです。この子の本心ではありません。どうか天道様、この子の罪をお許しください」
と、叫んで言っても、とうとう落ち入ってしまいました。
母がつかんだ髪は抜けて、手に握りしめたまま残りました。
母はその髪を持って、泣く泣く家へ帰り、子のために法事を営み、髪は箱に入れて仏前に置き、つつしんで僧に読経してもらいました。
母は慈悲の心が深いゆえに、自分を殺そうとした子を哀れみ、その子のために法事を営んで罪障消滅を祈ったのでした。

これで良くわかる。
不孝の罪を天道は、明らかに憎まれるのだということを。
世の中の人はこれを知って、親を殺すまでのことはあり得ないにせよ、ただ心から父母に孝養を尽くし、決して不孝をしてはならぬ、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻20第33話 吉志火麿擬殺母得現報語 第卅三
今昔物語集 巻20第33話 吉志火麿擬殺母得現報語 第卅三 今昔、武蔵国多摩の郡鴨の里に、吉志火丸と云ふ者有けり。其の母は日下部(くさかべ)の真刀自(まとじ)

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

説話について

本話の出典は『日本霊異記』中巻の三。
「筑前守□□という人の供をして」という部分は、作者が元とした霊異記本文の誤訳と思われる。本来ならば、「大伴某という役人に防人(さきもり)として指名された」という意味の文になる。

日本霊異記 興福寺蔵 国宝

防人の期間は三年。親の服喪期間は一年で、父母の死による服喪の間は、防人の兵としての服役が免除された。
妻を恋うる吉志の火麻呂は、この服喪の期間を利用して帰郷しようと謀った。その報いで大地が裂けて墜落死したのだが、母は天に子の免罪を願い、遺髪を仏前に供えて冥福を祈った。
母の慈悲と火麻呂の悪行が対照的に描かれている応報譚。当時、説教・唱導にも利用された有名な話である。

吉志大麻呂とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 吉志大麻呂の用語解説 - ?-? 奈良時代の防人(さきもり)。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)の人。「日本霊異(りょうい)記」によれば,筑紫(つくし)に派遣されて3年たち,妻恋しさから,同伴の母を殺し,喪に服して軍役をのがれ,妻のもとにかえろうとした。母を山中につれだし,...

古代律令制の罪について

仏教の五逆罪、つまり五種の大罪とは、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(あらかん・最高位の修行者)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることで、これを犯すと無間地獄に堕ちるとされた。

律は刑法、令は行政・民法。
律の中で特に重大な犯罪として、八虐がある。
天皇を害しようと謀る『謀反(むへん)』
山稜・宮城を破棄せんと謀る『謀大逆』
敵国と通じ、国に背く『謀叛(むほん)』
祖父母・父母・伯叔父姑・兄姉・外祖父母・夫・夫の父母を殺す『悪逆』
一家三人を殺し、他人を病苦や死に陥れるために呪術をした場合。伯叔父姑・兄姉・外祖父母・夫・夫の父母を打ち殺そうと謀る。四等以上の目上の人や妻を殺す『不道』
伊勢神宮を毀損、神御物や天皇の服御物を盗み、神璽・内印を盗み・偽造、天皇を批難した、あるいは人臣の礼を欠くという『大不敬』
祖父母・父母をうらみののしる、孝心に背く、喪に服さない『不孝』
主や国司、恩師を殺し、また夫の喪を隠す『不義』

火麻呂の場合、現代でいうなら尊属殺未遂とでもいうのだろうか。『不孝』は、古代において大罪であった。
現代の刑法でも、自己または配偶者の直系尊属を殺害すると、法定刑が死刑・無期懲役に限定されていたが、それは「法の下の平等」に反するとして、違憲とされ、1995年(平成7)の刑法改正でその条項は削除されている。

ちなみに、律の刑として、鞭打ちの笞(ち)、杖で打つ杖(じょう)、懲役の徒(づ)、辺地へ送る流(る)、絞か斬の死(し)があり、嵯峨天皇の頃からは死罪と決まっても罪一等を減じることが行われ、死罪が復活したのは、平治の乱で藤原信頼(ふじわらののぶより・1133-1159)が敗れて斬罪となってからである。

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『日本霊異記』板橋倫行校注、角川文庫

 

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