巻四第二十五話 竜樹と提婆の問答

巻四

今昔物語集巻4第25話 龍樹提婆二菩薩伝法語 第廿五

今は昔、西天竺に竜樹菩薩という聖人がいらっしゃいました。智恵は無量、慈悲は広大でありました。また、そのころ中天竺に提婆菩薩という方がいらっしゃいました。この人もさとりが深く、法を広めたいという心も強くお持ちでした。
竜樹菩薩が智恵無量であるということを聞いて、仏法を習いたいと考え、提婆菩薩ははるか西天竺を目指して歩きはじめました。その道はとても遠く、深い川を渡り、崩れそうな架け橋を渡り、岩山によじのぼり、荒磯を渡り、広い荒野を行かねばなりませんでした。水の得られないときもありましたし、食べるものがないときもありました。このように耐えがたい道を泣く泣く歩むのは、未だ知らぬ仏法を習い、伝えるためです。おおいに悩み乱れ辛苦の末、数か月後、ついに竜樹菩薩のもとに参りました。

提婆は案内を頼むために門前に立ちました。すると一人の弟子が、師の室に入っていくのに出会いました。弟子は問います。

「聖人は何用あってこちらにおいでになったのですか」

「お話したいことがあって参りました」

弟子はこれを聞いて、師の菩薩に伝えました。菩薩は別のしかるべき弟子を立ててたずねました。「どこからいらっしゃいましたか」

提婆菩薩が答えました。「私は中天竺の者です。大師の智恵は無量であると聞きました。とはいえ、道は遠くはるかに険しく、簡単に行くことのできるところではありません。しかも、私は年老いて身もつかれ、歩もうとしてもその道が耐えがたいのです。しかし、ただ仏法を習いたい伝えたいと思いました。仏法を伝える縁があるならば、かならずたどり着くだろうと思い、身命をかえりみず参りました」

弟子は承ってこれを伝えました。師はたずねました。「その比丘は若い人か年老いた人か。どんな人か」弟子は答えました。「たいへん尊い様子の方です。本当にはるかな道を旅して来られたのでしょう、やせ衰えていらっしゃいます。今は立ち上がれず門のわきに座りこんでいます」
大師は小さな箱をとって、箱に水を入れ、弟子に「これを持っていきなさい」と伝えました。弟子は箱を提婆菩薩に渡しました。

提婆菩薩は箱に水が入っているのを見て、衣の首より針を抜き出し、それを箱に入れて弟子に返しました。大師が箱を見ると、針が一本入っています。大師はこれを見て驚き騒ぎました。「真の智者がいらっしゃった。すぐに招き入れず、たびたび問うようなことをして申し訳ないことをした」僧坊を掃き清め、座をつくり、弟子に「すぐに入ってもらいなさい」と伝えました。

弟子は大師に問いました。
「他国より来た比丘は、なぜ来たかを語りませんでした。大師がまず来意を問うと、比丘は語りました。次に箱に水を入れて渡しました。遠国から参れば喉が渇くだろう、まずは喉をうるおすがよいということかと思って比丘に渡すと、比丘はこれを飲まず、衣の首から針を抜き出し、箱に入れて返しました。針を大師に奉ったのだと考えましたが、大師はこれを見るなり、たいへんな失礼をしたと語り、比丘を招き入れました。わからないことばかりです」

大師は笑っていいました。「おまえの智恵はなってないなあ。中天竺の比丘は、はるか遠くから来て仏法を伝えたいと言った。私がそれに答えずに箱に水を入れて与えたのは、『水を入れた器は小さくとも、そこにすべての景色をうつしこむことができる。私の智恵の器はこの器のように小さいけれども、あなたのすべての景色をここに浮かべてみなさい』と語ったのだ。ところが、聖人は私の考えをさとり、針を入れた。これは、『私の針程度の智恵をもって、あなたの大海の底をきわめたい』ということだ。おまえは長年私に付き従っているが、智恵が薄く私の心を悟れなかった。中天竺の聖人ははるか遠くよりやってきたそうだが、私の心の内をよく知っていた。智恵がある者とない者の優劣は大きく違っているものだ」弟子はそれを聞き、肝も心も砕けるように思いました。

大師の仰せのとおり、聖人は招き入れられ、大師と会いました。まるで瓶の水を移すように多くを習い覚え、法を持ち帰って本国に伝えました。

智恵がある者とない者、心がさとい者遅い者、はっきりと現れるものだと伝えられています。

【原文】

巻4第25話 龍樹提婆二菩薩伝法語 第廿五 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

提婆(アーリヤデーヴァ)とは竜樹の弟子である。日蓮が教説を論じた『曽谷入道殿許御書』によれば(日蓮もたいへんな名文家なのでその手紙の数々を翻訳したいがこれは宗教がうるさそうだ)、竜樹(龍猛菩薩といわれる)は顕教・密教両方の教えを持っており、顕教は提婆に伝えたという。言うまでもなく日蓮はこちらを正しき法灯としているわけだ。

この話は『大唐西域記』、そして『宇治拾遺物語』にも記されているという。

日本古典文学摘集 宇治拾遺物語 巻第十二ノ二 提婆菩薩龍樹菩薩の許に参る事 現代語訳

とはいえ智恵のない者の代表である自分は、こんな禅問答わかるかよと思い、真っ先に蒟蒻(こんにゃく)問答を思い浮かべてしまうのである。

コメント