巻二十七第二話 宇多院が霊と対話した話

巻二十七(全)

巻27第2話 川原院融左大臣霊宇陀院見給語 第二

今は昔、川原院は、融の左大臣(源融)が造ってお住まいなされた家でした。陸奥国(東北地方)の塩窯の塩水を汲み、池に湛えさせた様子は、様々になんとも言いようのないくらい素晴らしい風流なものを造ってお住まいになられました。この大臣が亡くなった後は、その子孫である人が宇陀の院(宇多天皇)に差し上げなさりました。

源融(菊池容斎『前賢故実』)

宇陀の院がその川原院にお住まいになられていた時、醍醐天皇(宇多天皇の父)がたびたび行幸になり、大変結構なことでありました。

そのころ、夜半辺りだったでしょうか、西対の屋の塗籠(※注)が開いて、誰かが衣擦れの音を立ててやってくる気配がありましたので、院がごらんになった所、正装をして束帯をつけた人が、太刀を身に帯び、笏を持って畏まり、二間(約3.6メートル)ほど離れてひざまずいているので、院が「そこにいる者は誰だ」とお尋ねになった所、「この家の主人である翁です」と申し上げました。「融の大臣か」「さようででございます」「何の用件なのか」「我が家なので住んでおりましたが、このように院がいらっしゃいますので恐れながら窮屈に存じます。どうしたらよろしいでしょうか」「それはおかしなことだ。私は人の家を乗っ取ったのではない。お前の子孫が献上したから住んでいるのだ。なぜ、鬼神とはいっても、物の道理を弁えないで、こんなことを言うのか」と声高に言い放つと、霊はかき消すように消え失せました。その後、二度と現れることはありませんでした。

当時の人はこのことを聞いて、畏れ敬ったのでした。「院はやはり凡人ではいらっしゃらなかったのだ、この大臣の霊に遭っても、他の人ではこのように物怖じせずには答えられまいよ」と言ったと語り伝えられています。

【原文】

巻27第2話 川原院融左大臣霊宇陀院見給語 第二
今昔物語集 巻27第2話 川原院融左大臣霊宇陀院見給語 第二 今昔、川原の院は融の左大臣の造て住給ける家也。陸奥国の塩竈の形を造て、潮の水を汲入て、池に湛(たた)へたりけり。様々に微妙く可咲き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院

【翻訳】 長谷部健太

【校正】 長谷部健太・草野真一

【協力】草野真一

【解説】長谷部健太

[源融]…嵯峨天皇の皇子であり、按察使、左大臣、従一位。寛平七年(年)八月二十五日に七十四歳で薨去。
[宇多院、宇陀院]…宇多天皇のことで、醍醐天皇の皇子。名君との評判であり、そこから創られた話か。

※塗籠(ぬりごめ)…寝殿造りの母屋の一部を仕切って周囲を厚く壁で塗り固めて作った閉鎖的な部屋。元は寝室だったものの、納戸のようにも使われるようになった。

宇多法皇像(仁和寺蔵、15世紀)

【参考文献】

日本古典文学大系『今昔物語集 四』(岩波書店)
『今昔物語集 本朝世俗篇(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)

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