巻30第4話 中務大輔娘成近江郡司婢語 第四
今は昔、中務の大輔(なかつかさのたいふ、宮中の事務を行う第二等官)□□という人がありました。男の子はおらず、娘がひとりありました。
貧しい家でしたが、兵衛の佐(ひょうえのすけ、内裏の警護を行う第二等官)□□という人を聟にとり、年月をすごしていました。ある日、父の中務の大輔が亡くなりました。生活の面倒を見てもらっていたこともあるのでしょう、聟も去り難く思っていました。母ひとりになり、すべてを心細く感じていたためか、母も病に伏しました。娘はとても悲しく思っていましたが、やがて母も亡くなり、娘だけが残りました。泣き悲しみましたが、どうしようもありませんでした。
やがて、使用人も出ていきました。娘は夫の兵衛の佐に言いました。
「親があったときには、支度を調えることもできましたが、こうなってしまっては、あなたのお世話もできません。宮仕えは見苦しい姿ではできません。どうぞ、あなたのよいようになさってください」
男はいとおしく思い、
「どうして見棄てることができようか」
と言って、しばらくともに住んでおりました。しかし、着物なども見苦しくなっていくばかりです。
妻は強く言いました。
「ほかの人と暮らしていただいてもかまいません。恋しく思っていただけるなら、やってきてください。今のあなたはあまりに見苦しく、このままでは宮仕えはできません」
男は、ついに女のもとを去りました。
男がいなくなってしまえば、女ひとりです。いよいよあわれで心細くなりました。家も人がいないのでとても静かでした。幼い童がひとりありましたが、着るものもなく、食事もできなかったので、これも去ってしまいました。
男もはじめは「かわいそうだ」と言っていましたが、やがて別の女の聟となり、手紙をよこすこともなくなりました。たずねて来ることもありません。娘は様子悪く壊れた寝殿の片角に、幽(かすか)にひとりでおりました。
その寝殿の片端に、年老いた尼が宿を借りて住んでいました。女をあわれんで、ときおり果物や食物などを持ってきてくれました。それに頼って年月をすごしていました。
ある日、この尼のもとに、近江国(滋賀県)に長く滞在している郡司(地方官。国司より下)の子である若い男が泊まることがありました。男は尼に言いました。
「誰か相手のいない女の童子(少女)を知っていれば、紹介してくれないか」
尼は言いました。
「私は年老いて外出することもないので、女の童子は知りません。しかし、この館には、美しい姫君が、たったひとりでさみしく暮らしています」
男は深い興味を抱きました。
「その人に会わせてくれ。さみしく心細い暮らしを送るよりは、田舎ではあるけれども、国に下ってもらって妻にしたい」
尼は「伝えます」と答えて、申し出を受けました。
男はそれを伝えてからは、しきりに尼をせかしました。
尼は女のもとに果物などを持っていくついでに言いました。
「いつまでもこんな暮らしをしているわけにはいかないでしょう。近江から、しかるべき人の子がやってきています。『ここにひとりでいるよりも、ともに国に下りたい』と熱心に言っています。そうなさってはいかがでしょう。このような暮らしよりずっといい」
しかし、女は首肯しませんでした。「どうしてそんなことができるでしょうか」と答えました。
尼は帰りました。
男は強く思っていたので、弓などを持って、その夜、館の周囲を歩きました。犬が吠えたて、女はふだんより物おそろしく思い、心細く夜をすごしました。尼がたずねると言いました。
「昨晩はおそろしい思いをしました」
「だからこそ申しあげたのです。あのように言ってくれる人があるのですから、一緒に下りなさい。このままでは、つらいことばかりありますよ」
女が「どうしたらよいのでしょう」と言っているのを見て、尼はその夜、男を引き入れました。
男は女と昵懇になりました。こんなことは生まれてはじめてで、女を離すことができず、ともに近江に下りました。女も「今となってはしかたない」と思い、したがいました。
しかし、この男は国に妻があり(当時は一夫多妻が通例)、妻の親の家に住んでいました。本妻がひどく嫉妬したので、男はやがて、この京の女のもとには寄りつかなくなりました。京の女は、親の郡司に仕えました。
やがて、その国に新しい国司(郡司の上官)がやってくることになりました。国は大騒ぎでした。
「守の殿(国司)がいらっしゃいました」という声がすると、郡司の家も大忙しです。果物・食物などを立派に調えて、国司の館に運び入れました。京の女は「京の」と呼ばれ、郡司に仕えていましたが、館にものを運ぶために大勢の人が必要でしたから、京のもそれにかり出されました。
守は館で多くの下衆共(下人たち)がものを運び入れるのを見ていましたが、京のはほかの下衆にくらべ、気品があるのに気がつきました。守は、小舎人童(こどねりわらわ、召使いの少年)を、召して言いました。
「あれはどういう女か。聞いて、夕刻に参るように伝えよ」
小舎人童は女が郡司の従者であることを知り、郡司に守の意向を伝えました。
郡司は驚き、家に帰って、京のを湯浴させ、髪を洗わせ、飾りました。郡司は言わずにはいられませんでした。
「京の女の美しさはきわだっているぞ」
その夜、衣などを着せて飾り、郡司は京のを守に差し出しました。じつは、この守は、京ののもとの夫である兵衛の佐が出世した姿であったのです。
守は京のを近くに召し寄せました。どこかで見たことがあるような気がします。抱いて臥すと、なつかしい感じがします。
「おまえは誰だ。昔、見たことがあるような気がする」
女もわからなかったので、
「私はこの国の者ではありません。以前は京におりました」
と答えました。
守は「京の者が来て、郡司に仕えているのだろう」と考えました。女の美しさに、毎晩召していましたが、どこかで会ったことがあるという思いはつのります。
守は女にたずねました。
「京では何をしていたのか。これを聞くのは、おまえをいとしいと思うからだ。隠さずに答えなさい」
「じつは、これこれこういう理由で、今の身の上になりました。守はよく似ておられるので、昔の夫の親戚の方かもしれないと思っています。通常はこんなことは申し上げないのですが、強く問われるのでそう言うのです」
女はそう言って泣きました。
「ああ、だからなつかしかったのだ。これは私のふるい妻だ」
奇縁を思い、涙を流しました。それをさとられないようにしていると、湖(琵琶湖)の波の音が聞こえてきました。女はこれを聞くと、「これは何の音ですか。おそろしい」といいました。守はこう詠みました。
これぞこのつひにあふみをいとひつつ世にはふれどもいけるかひなし
(これは、近江の波の音です。二人もついには「逢う身」であるのに、たがいに離れて過ごしました。生きる甲斐もないことでした)
守は泣きながら言いました。
「私はこういう者だ」
「それでは、私の夫だった人ではありませんか」
あまりのことに、心騒いでもたなかったのでしょう。女はそのまま、ものも言わず冷たくなりました。守は「これはどうしたことか」と騒ぎたてましたが、女の命は尽きていました。
まことに哀れなことです。女は「夫だった」と知ると同時に、自分の半生をふりかえり、宿世が思いやられ、恥ずかしさに耐えられず亡くなったのでしょう。本当のことを伝えずに、面倒だけを見てやればこんなことにはならなかった。男の心のなさゆえでしょう。
女の死後、男がどうなったかは伝えられていません。
【原文】
【翻訳】 葵ゆり
【校正】 葵ゆり・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】葵ゆり
平安時代は嫁の親が婿の面倒を見るのが通例だったので、両親を失い家が没落すると婿は経済的基盤を失う。それが別れにつながった。
ふたりは以前とはまったく別の場所、まったく別の立場で再会することになる。とはいえ、時間がたったからといって相手がわからないということがあるだろうか。面会しただけならまだしも、毎晩床までともにしているんだから気づかないのはおかしい……と考えるのは現代人の感覚であろう。
これは推測だが、以前ともに暮らしていたとき、女は少女だったのではないか。年齢にすると十二、三歳。もっと若かった可能性もある。平安時代の常識ではまったくおかしな話ではない。
男が女を誰だかわからないのは、目の前の成熟した女性が、あの少女と同一人物だと思えなかったからではないか。男のほうも同じである可能性もある。つまり、ふたりは夫婦だったとき少年少女だったのだ。だからわからなかったのかもしれない。
女が京から近江に行くことをいやがったのは、当時「都落ち」がとても深い意味をもっていたことを示している。都と地方都市では、文化程度はもちろん、人口もまるでちがっていたのだろう。
郡司の家と国司の館が近かったことから考えて、近江とは現在の大津市(滋賀県の県庁所在地)か、それに類する都市だったと思われる。
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