巻4第40話 天竺貧女書写法花経語 第四十
今は昔、天竺に女がありました。家が貧しく、財がないうえに、子もありませんでした。女は仏神に祈りました。
「せめて子をつくり、生きるたよりとしたい」
女はたちまち懐妊し、一人の女の子を産みました。
比べるものもないほど美しい子でした。やがて、この子は成長し、十余歳になりました。母は娘をかぎりなく愛し、とても大切にしました。近所の人も、娘を見て、誉めないものはありませんでした。しかし、家が貧しかったため、夫を持たせることができませんでした。
母は思いました。
「私は既に人生の半ばを過ぎた。残りの命は決して多くない。後世のために、『法華経』を書写し供養しよう」
しかし、彼女は貧しいので写経をするための費用をつくることができませんでした。
おおいに歎いていると、娘が言いました。
「私は財産がありません。たとえ生きながらえたとしても、死なずに済むものではありません。死んだら土になるしかないのです。私が持っているものといえば、この髪のみです。これを売って、お母さんが『法華経』を書写供養する費用にあてましょう」
母は娘の美しい姿を壊してしまうことを悲しみましたが、娘は髪を売るために出ていきました。あちこちの家に立ち寄り、
「この髪を買ってください」
と言いましたが、とても美しい娘です。比べるものもない形貌(なり)であり、その美しさゆえに「髪を買いましょう」と言う者はありませんでした。
娘は思いました。
「ふつうの家では、この髪をほしいと言ってくれる人がいない。国王の宮に行き、そこで髪を売ろう」
王宮に入ろうとすると、一人の旃陀羅(せんだら、被差別民。Chandalaの音訳。中世は日本語として流通していた)に会いました。姿かたちはとても怖ろしく、人には見えないような者でした。彼が言いました。
「私は国王の命をうけ、おまえのような者を探していたのだ。殺してやろう」
娘は問いました。
「私はなんの罪も犯してはいません。孝養のために髪を売ろうとして、王宮に入ったのです。なぜ殺されなければならないのですか」
旃陀羅は答えました。
「国王に太子がある。十三歳になるというのに、生まれてこのかた、一度もものを言ったことがない。医者がいうには『髪の長い、世にならぶものがないほど美麗な女の肝を取って、それを薬にせよ』とのことだ。国内あちこちを探しまわったが、おまえほど美しい女はない。おまえの肝こそ必要なのだ」
娘は涙を流して「殺さないで」と言いました。
旃陀羅は女の胸に刀を突きつけて言いました。
「おまえを助けては、私が咎(とが、罪)をこうむるだろう。助けることはできない」
「あなたは私を命を奪うと言います。せめて、このことを国王に申し上げてください」
旃陀羅は女の言にしたがい、国王に奏上しました。
国王はこれを聞くと、女を召し出しました。見れば、たしかに世に比べるもののないほど美しい娘です。国王は言いました。
「これこそ求めていた薬だ」
娘は言いました。
「私は太子のために命を失うことを惜しんでいるのではありません。法華経を書写したいという母の願いをかなえてあげたいのです。家に貧しいためにその財がなかったので、髪を売ろうと考え、家を出ました。私が死んだと聞けば、母は歎き、堪えることもできないでしょう。家に帰って、母に報告して、ふたたびここに戻って来たいと思います。大王の命令には決して背きません」
王は答えました。
「おまえの言うことは道理だ。しかし『太子を早く話せるようにしたい。わが子の声が聞きたい』という気持ちはおさえられない。おまえを家に帰らせるわけにはいかないのだ」
娘は泣く泣く心に思いました。
「私は孝養のために家を出て、命を失おうとしています。十方(八の方角に上下をくわえたすべての方角)の仏よ、私を助けてください」
そのとき、太子は簾の内から娘を見ました。とてもいとしいと思いました。はじめて声を出し、父の大王に申しあげたのです。
「大王、この女を殺さないでください」
大王・后・大臣・百官、太子の声を聞いて、おおいに喜びました。
王は言いました。
「私は愚かにも、母を大切にする孝子を殺そうとしました。願わくは十方の仏よ、私の咎を許してください」
そして、娘に言いました。
「太子がものを言ったのは、おまえの徳のおかげだ」
王は娘に無量の財を与え、家に帰しました。娘は母にこのできごとを語り、共に歓喜し、法のとおりに法華経を供養したといいます。
法華経には験力はこれほどであると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
柴崎陽子
【校正】
柴崎陽子・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柴崎陽子
昔話なら娘は太子と結婚しました、めでたしめでたしで終わるところだがそうなってないのがおもしろいところ。娘の父親は誰なのか書いてない。そこは重要じゃないってことだろう。訴えたいのは「法華経にはたいへんな霊験がある」ということだから。
奇跡が起きたのは彼女が美人だったからだが、髪が売れなかったのも美人だったからだ。
慈覚大師円仁(794~864、最後の遣唐使)は、帰国後、比叡山の横川に草庵をつくり、草を筆とし石を墨として三年間「法華経」の書写をつづけたという。その際「如法経」に記されたルールにしたがった。
話の中で「法のとおりに」とあるのは「如法経」のルールどおりに、ということ。比叡山では現在でもおこなわれている。
インドが舞台だが日本っぽい話。仕方ないだろう。インドがどんなところか知らない人が書いたんだから。
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