巻9第30話 震旦魏郡馬生嘉運至冥途得活語 第三十
今は昔、中国の唐の時代、魏郡に馬嘉運(ばかうん)という者がいました。馬生と呼ばれていました。
貞観六年(632年)の正月、家にいた時のことです。日が暮れた頃に門を出ると、二人の男がそれぞれ馬を一頭ずつ引き、門の外の木の下に立っているのが見えました。嘉運が「あなた方はどなたですか」と問うと、彼らは「私たちは東海公(冥府の支配者)の使いとして、お迎えに参りました」と答えました。
嘉運はもともと博学で知恵があり、その名は近隣に知れ渡っていました。常に台閣(政務を司る機関)からの使いや各地の貴客が訪れ、その多くが面会を望むような人物でした。ために、嘉運は東海公の使いと聞いても怪しむことはありませんでした(ふつうの役所と考えた)。
「私には馬がありません」
「この馬を差し上げます。これに乗ってお越しください」
嘉運はすぐに木の下で馬に乗り、そのまま出かけました。
しかしそのとき、嘉運は急に木の下で倒れ、亡くなっていたのです。
嘉運はあの世の役所に到着し、大門に入りました。数十人の男たちが門の外でなにか訴え事をしているようでした。
その中に一人、女性がおりました。以前から見知った人でした。
「昔、私は張公瑾(ちょうこうきん)総管と親しく付き合っていました。彼は理不尽にも私を殺しました。私は天曹(冥府の神、東海公はその下で冥府の王となっている)に訴え続け、もう三年になります。王天主が公瑾を救い護っていたために、いつも私の訴えは退けられてきました(のちに説明がある)。しかし、ようやく役所に申し立てが受理され、間もなく総管は召し出されるでしょう。それにしても、殺されたのは私だけだと思っていたのに、馬生さん、どうしてあなたはここへ来られたのですか」
嘉運はこの女性が殺された経緯を知りませんでしたが、話を聞いて「自分も死んでしまったのだ」と悟りました。使者が嘉運を連れて中に入り、連れてきた旨を報告しましたが、東海公は眠っていて尋問しませんでした。そこで嘉運は、司刑(役人)のところへ連れて行かれ、座らされました。
嘉運がその司刑を見ると、それはかつて益州の役人だった霍璋(かくしょう)という人物でした。霍璋は嘉運を見ると近くに座らせてこう言いました。
「この役所では記室(書記)が欠員になっています。東海公はあなたの才能を聞き及び、ぜひその職に就けて迎えたいと召し出しました」
嘉運は答えました。
「私は家が貧しく、妻子を養うこともままなりません。どうか私を逃がしてください。そうしていただければ幸いです」
すると霍璋は「それならば、公の前で『自分は学問が浅く、知識も少ない』と申し立てなさい。その時は私が口添えしましょう」と教えてくれました。
そうしているうちに「公がお目覚めになった」と告げられ、嘉運は奥へ連れて行かれました。見ると、広間の座に一人の人物が座っていました。太っていて、黒い肌をしていました。長官は嘉運を呼び寄せると、「おまえの才能を聞き、記室にしようと思う。快く引き受けてくれるか」と尋ねました。 嘉運は礼をして答えました。
「とても光栄ですが、私はへんぴな田舎者で、村で教えているだけの身です。記室のような大任は務まりません」
公が「霍璋はおまえのことを知っているか」と問うと、嘉運は「霍璋は私のことをよく知っています」と答えました。
そこで霍璋が召し出され、嘉運の才学について問われると、霍璋は「私が生きていた頃、嘉運の日常を知っていましたが、文章を書くところは見たことがありません」と答えました。公が「では、誰なら文章に長けているのか」と尋ねると、嘉運は「陳の子良という者が、文章に精通しております」と答えました。公は「ならば馬生は帰してやれ」と言い、すぐに「子良を召し出せ」と命じました。こうして嘉運は辞去することが許されました。
霍璋は嘉運と別れる際、こう頼みました。
「お願いがあります。我が家の狗(長男の罵称)に伝えてください。『私が生きている時に、乗っていた馬を売って私のために仏塔を建ててくれと言ったはずだ。それなのに、なぜ馬を売った金を自分で使っているのか。早く私の教え通りに仏塔を建てなさい』と」。 嘉運が「先ほど会った張公瑾の妻が言っていた、王天主とは誰のことですか」と尋ねると、霍璋は「公瑾と同じ郷里の王という男です。五戒を保って亡くなり、天主となって常に公瑾を護っていたのです。そのおかげで公瑾は今まで罪を免れていましたが、もうそれも終わるでしょう」と言い残して別れました。
その後、使者が嘉運を送ってくれました。小さな階段状の道に来ると、使者は道を指し示して嘉運を帰しました。 嘉運は息を吹き返すと、霍璋の家へ行き、あの世で聞いた言葉をすべて伝えました。
その年の七月、綿州の陳という姓で字(あざな)が子良という男が急死しました。一晩たって生き返った彼は、こう語りました。
「私は東海公にお会いし、書記になるよう言われましたが、文字を知らないと言って断り、別れてきました」
その後、呉の人である陳子良という人物が亡くなりました(嘉運が言った人とは別人)。また、張公瑾も亡くなりました。
二人が亡くなった後、嘉運が人と道を歩いていると、突然あの世の役人が現れました。嘉運はひどく怯えて逃げ出しましたが、役人は彼を呼び止め、一緒にいた連れの人にも聞こえるようにこう言いました。
「私は以前会った東海公の使者だ。益州へ人を召し出しに行く途中である。陳子良がお前のことをひどく恨んで訴えており、司刑(霍璋)もお前のために嘘をついたとして責められている。本来ならお前もただでは済まないところだが、以前に『生を贖う(命を救う)』功徳を積んでいたおかげで、免れることができたのだ」。
以前、嘉運が蜀にいた時のことです。現地の人が池の水を抜いて魚を捕ろうとしていました。嘉運はその時、人のために書を講義して得た絹数十匹(巻物の単位)を差し出し、池の魚をすべて買い取って逃がしてやったことがありました。役人が言った「生を贖う」とは、このことを指していたのです。
貞観年間に、皇帝が九成宮にいた際、この話を聞いて中書郎(中書省の次官)の岑文本(しんぶんぽん)に命じて詳しく調査させました。文本が詳細を記録して奏上しました。
嘉運はその後、国士博士(大学教授)という官職に就き、その職にあるまま亡くなったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【解説】 草野真一
鬼文化・冥界表象からの日中比較説話文学史の構築
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-26370432/26370432seika.pdf










コメント