巻13第1話 修行僧義睿値大峰持経仙語 第一
今は昔、仏の道を修行する僧がありました。名を義睿(ぎえい)といいます。多くの山を廻り、海を渡り、さまざまな国々に行き、所々の霊験に参りました。
熊野に詣で、大峰山を通って、金峰山に出ましたが、山の中で道に迷い、東も西もわからなくなりました。宝螺(ほら貝)を吹いて、その音で道を知ろうとしましたが、わかりませんでした(修行者どうしがほら貝を吹いて自己の位置を知らせ、正しい道を教え合う慣習があった)。
山頂に登り、四方を見てみましたが、幽かな(奥深い)谷が広がるばかりです。このようにして十余日、辛苦悩乱しました。義睿は歎き悲しみ、ふだんから祈っている本尊に、人に出会うことができるよう祈りました。
やがて、地面が平らな林に至りました。その中に、美しくつくられた僧房がありました。破風・懸魚・格子・遣戸・蔀・簀子・天井、すべてがみごとにつくられていました。前の庭には広く白砂がまいてありました、庭にはすきまなく木が植えられ、多くの花が咲き、実っていました。かぎりなく妙なる様子でした。義睿はこれを発見して大いに喜び、近寄ってみると、房の中に僧が一人ありました。年はわずか二十歳ほど、法華経を読誦していました。その声は身に染みるようで、かぎりなく貴いものでした。見ると、ひとつの巻を読み終えて経机に置くと、その経が空に踊り、軸から表紙まで巻返し、紐を結び、もとの形で机に置かれます(巻物)。このように巻ごとに巻き返し、一部を読み終えました。義睿はこれを見て、不思議に貴く、恐しく思いました。聖人は立ちました。
聖人は義睿を見つけて不思議に思ったようで、大いに驚いて言いました。
「ここには、古より今まで、人が来たことはありません。山深く、谷の鳥の声さえまれなのです。まして、人が来ることは絶えてなかったのに、どなたがいらっしゃったのですか」
「私は仏の道を修行するためにこの山に入りました。道に迷ってここに来ました」
聖人はこれを聞き、義睿を房の中に呼び入れました。やがて姿の端正な童が、素晴らしい食物を捧げて来て、食べさせました。義睿はこれを食べ、ずっと餓えていたのがおさまり、楽しい心になりました。
義睿は聖人に問いました。
「聖人はいつからここに住んでいるのですか。また、なんでも心に任せてできるようですが、それはどうしてですか」
「私はここに住んで既に八十年を過ぎます。もとは比叡の山の僧でした。東塔の三昧の座主(喜慶)と呼ばれた人の弟子でした。師はささいなことで私を勘当したので、愚かな心で本山を去り、心に任せて流浪して、若く血気盛んなときは在所も定めず、所々で修行していました。年老いてからは、この山にとどまり、死ぬときを待っています」
義睿はこれを聞いておかしなことだと思いました。
「あなたは『ここには人が来ない』とおっしゃいましたが、端正な童子が三人もいるではありませんか。虚言ですか」
「経に『天諸童子。以為給仕。』(法華経受持者には童子たちが従い付き添う)と説いています。なぜそれを怪しむのですか」
義睿はさらに問いました。
「聖人は『私は老耄だ』おっしゃいましたが、姿を見れば、年若くさかんです。これは言葉の綾ですか」
聖人は答へえました。
「経に『得聞是経。病即消滅。不老不死。』(法華経を聞くことができれば、病はたちまち治癒し、不老不死を得る)と説いています。嘘をついているのではありません」
その後、聖人は義睿にすみやかに帰るようにと勧めました。義睿は歎いて言いました。
「私は数日間、方角さえわからずに山をさまよいました。心は弱くなり身は痩せて、歩くことはできません。ならば、聖人の力によってここに住み、お供させていただきたいと願っています」
「私はあなたを厭っているわけではありません。ここは、人間の世界を離れて、多くの年を経ています。だから強く帰ることを勧めているのです。ただし今夜、もしここに留ろうと思っているならば、身体を動かさず、声を出さず、息を殺しているようにしてください」
義睿はその晩留まりました。聖人の言うように、静かにして隠れて居りました。
夜明けごろ、にわかに微風が吹いて、異様な気配が漂いはじめました。義睿は物陰に隠れていました。様々の異類の姿をした鬼神がやってきました。あるいは馬の頭、牛の頭をしていますし、あるいは鳥の首、鹿のすがたをしていました。多くの鬼神がやってきて、それぞれ香花を供養し、菓子・飲食などを捧げ、前の庭に高い棚を築いて、その上に膳をそなえて、礼拝して掌を合せて、次第に去っていきました。その中で、ひとりの者が言いました。
「今夜はおかしい。ふだんはしない人間の気がある。誰か人が来たのか」
義睿は心迷い、身がふるえるのを抑えられませんでした。
その間、聖人は、願を発して法華経を終夜読誦していました。朝がやってくるころ、廻向したのち、異類の輩はすべて帰っていきました。
義睿はやおら出てきて、聖人に問いました。
「今夜の異類の輩は、どこから来たのですか」
「経に『若人在空閑。我遣天竜王夜叉鬼神等。為作聴法衆。』(もし法華経を聞く者がないならば、私は天人・竜王・夜叉・鬼神を遣わして、聴聞させよう)とあります」
それだけ答えました。
義睿は帰ろうとしましたが、どう行くのがいいかわかりません。聖人は教えました。
「すみやかに南に向かって行きなさい」
水瓶をとり、簀子(すのこ)に置きました。水瓶は踊り下りて、しばらくすると飛んで行きました。義睿が水瓶に追っていくと、二時間ばかりで山頂に着きました。山頂から麓を見下ろすと、大きな人里がありました。そのとき水瓶は虚空に飛んで、見えなくなりました。「もとのところに帰ったのだろう」と思いました。
義睿はついに里に出ることができ、涙を流しながら深山の持経仙人のありさまを語りました。話を聞く者はみな、みな首を垂れて貴びました。
まことの心を尽くした法華経の持者はこのようなものです。その後、聖人のもとを訪れた人はなかったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
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