巻9第1話 震旦郭巨孝老母得黄金釜語 第一
今は昔、震旦の後漢の時代、河内(河南省沁陽)というところに、郭巨という人がありました。父はすでに亡くなっていましたが、母は生きて在りました。
郭巨は母をとても大切に養っていましたが、貧しく、常に餓えに苦しんでいました。食物は三つに分け、母に三分の一、自分に三分の一、妻に三分の一が渡るようにしていました。
このようにして老母を養っているうちに、妻が一人の男子を生みました。その子はだんだん大きくなり、六、七歳になるころには、三つに分けていた食物を四つに分けなくてはならなくなりました。母の食物はますます少なくなりました。
郭巨は歎き悲しみ、妻に語りました。
「以前は、食物を三つに分けて母を養っていたが、少なかった。男子が生まれた後は、四つに分けている。ますます少ない。私は孝養(親孝行)の志が深い。老母を養うために、男の子を穴に埋めて、亡き者にしてしまおうと思う。とんでもない考えだと思うかもしれないが、孝養のためだ。惜しんだり、悲しんだりしてはいけない」
妻はこれを聞いて、雨のように涙を流しました。
「我が子を愛することは、『仏も一子の慈悲』と譬え説かれています(解説参照)。私は老いてから、ようやく一人の男の子を儲けました。懐(ふところ)から離すのすら悲しくて堪え難いほどだったのです。それを、遠くの山につれていって埋めてしまうなんて。たとえようもありません。しかし、あなたの孝養の心が深いことは知っています。あなたが思い企てたことを、私が妨げば、天の責めを受けるでしょう。ならば、すべてをあなたに任せます」
夫は泣く泣く妻の言を受け取り、妻に子を抱かせて、自分は鋤を持ち、遠くの深い山に入りました。子を埋めるため、泣きながら穴を掘りました。三尺(約0.9メートル)ほど掘ったとき、鋤の先に、固く当たるものがありました。石と考え、掘り出してしまおうとさらに深く掘っていきました。強く、深く掘ると、それは石ではなく、一斗(約18リットル)が納められるほどの黄金の釜でした。
釜には蓋がついていて、開いて見れば、文字があります。
「黄金の釜、天が孝子郭巨に与える」
とありました。郭巨はこれを見て、
「私の深い孝養の心をもって、天が賜うたのだ」
大いに喜び、母は子を抱き、父は釜を背負って、家に帰りました。
その後、この釜をすこしずつ砕いて売り、老母を養って生活しました。まずしいことはなく、やがて富貴の人となりました。
国王がこれを聞きつけて、不思議に思い、郭巨を召して問いました。郭巨はあったことを述べました。国王はとても驚いて、釜を持ってくるよう命じると、たしかに文があります。国王はこれを見て貴び、郭巨を国の重臣としました。
世の人はこの話を聞いて、孝養とは貴いことであると讃めたと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【解説】 草野真一
本話は、中国において後世の範として、孝行に優れた24人のエピソードを取り上げた書物『二十四孝』のひとつである。『二十四孝』は日本にも伝わり、仏閣などの建築物に描かれたほか、寺子屋の教材にももちいられた。
『二十四孝』は四角四面かつ奇想天外、ツッコミどころ満載だから、落語のネタにもなっている。現代人にはこちらのほうが親しみやすいだろう。
巻九は孝養の話がその半数を占めている。中国(儒教/道教)によったストーリーが続く、といってもいいだろう。
「仏も一子の慈悲」とは、釈迦には出家前につくった子、羅睺羅(らごら、ラーフラ)があったことを語っている。羅睺羅はのちに釈迦の弟子となった。えこひいきするようなことはもちろんなかったが、やはり我が子には特別の思いがあったのではないか。この言葉はそこから生まれている。
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