巻2第16話 天竺依焼香得口香語 第十六
今は昔、天竺の辺土(田舎)に住む人がありました。世に並ぶ者のない美しく端正な女を妻として、年来を過ごしていました。ある日、その国の王は身分の上下を問わず、ただ端正美麗の女を求めて后としようと考えました。宣旨を下し、東西南北に求めましたが、希望にかなう女を求めることはできませんでした。
うまくいかず国王が思い悩んでいると、一人の大臣が申しました。
「ある郷に、世に並びなく端正美麗な女があります。すみやかに彼女を召して、后とされるとよいでしょう」
国王はこれを聞くととても喜んで、宣旨を下し、彼女に使者を派遣しました。
使者は宣旨にしたがい、彼の家をたずねました。家主(男)がおりました。使者を見ておおいに驚き怪しみ、問いました。
「こんなところには、人は来ないものです。どうしていらっしゃったのですか」
使者は答えました。
「私は国王の御使です。あなたのところに、並びなく端正美麗な女があるでしょう。国王はこれをお聞きになり、召し抱えたいと考えております。惜しむ心なく、すみやかに奉りなさい」
家の主は答えました。
「私は長くこの地に住み、公にそむくようなことはしたことがありません。農業もしていませんし、財宝を貯蓄しているわけではありません。どうして私の妻を召すのですか」
「あなたが犯すところがないと言っても、王の国に住んでいるのは事実です。勅宣にそむくことはできません」
使者は女を搦め取るように捕らえて連れていってしまいました。夫は泣く泣く別れを惜しみ、やがて家を出ました。
使者が女を王宮につれていくと、国王はこれを見て聞きしにも増さる美しさに驚きました。世に並ぶものはございません。政治もせず、終夜、終日、女をかぎりなく愛し寵しました。やがて、后になさいました。
「この女は、長く野蛮な田夫の妻として過していた後で、国王の后となった。定めて喜んでいるにちがいない」
そう考えましたが、月日が経っても、女は心苦く思っているようで、ありがたく思う気色は見えませんでした。国王はさまざまなことに誘いましたが、ともに行こうとはしませんでした。種々の管絃を聞かせてもまったく喜ばず、さまざまな歌舞を観覧させても笑顔を見せることはありませんでした。
国王は、后に問いました。
「おまえは王を得たにもかかわらず、まるで毒蛇の宮に入ったようではないか。なぜ戯れ笑うことがないのだ」
后は答えました。
「王は天下の主ではありますが、私の下賤な野人の夫には劣っています。夫は、口から出る息がとてもよいにおいがするのです。旃檀や沈水の香を含んだようです。王はそうではありません。だから好きになることができないのです」
国王はこれを聞いて、とても恥ずかしく思いました。ただちに宣旨を下し、后のもとの夫を探させました。使者は東西に求めて夫を発見し、王宮に連行しました。后は国王に申しました。
「夫が来たようです。よい香りがします」
すこし待つと、夫は王宮にまいりました。一里(約4㎞)の間に、旃檀・沈水の香が満ちました。
国王はこれを不思議に思い、仏の御許に参って問いました。
「いったい彼はどうして、一里の間を旃檀・沈水の香で満たすことができるのですか。願わくは仏よ、この理由を教えてください」
仏は言いました。
「この人は、前世で木を伐る賤しい人(きこり)であった。木をかついで山から出てくると、はげしい雨が降ってきた。道のわきに崩れかけた寺があったので、その門でしばらく杖を立て、休んでいた。寺の中に一人の比丘があって、仏の御前で香を焼き経を読誦していた。山人はこれを見て思った。『彼のように、香を焼きたい』。その徳によって、彼は今生、口の内の息は香となり、一里のうちに満ちるのだ。彼はやがて、香身仏という仏となるだろう」
国王は心に随喜を宿し、王宮に戻りました。
人が焼いた香をかぎ、その生活をうらやむ気持ちを抱いてすら、このような生を与えられ、やがては仏となることを約束されています。まして自分で心を尽くし、香を焼き、仏を供養したなら。そう考えるべきだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
コメント