巻24第53話 祭主大中臣輔親郭公読和歌語 第五十三
今は昔、御堂殿(みどうどの・藤原道長)がまだ大納言で一条殿(妻・倫子の父、源雅信邸)に住んでおられたときのこと。
ときは四月初めのころ、日暮れ方になったので男たちを呼び、
「御格子を下ろせ」
と、仰せなさると、祭主の大中臣輔親は当時、勘解由使(かげゆし)の判官でありましたが、やってきて御簾の内に入り、御格子を下ろしました。
そのとき、南面の木の梢で、珍しく郭公(ほととぎす)がひと声鳴いて飛び過ぎました。
殿はこれをお聞きになり、
「輔親、おまえは今の鳴き声を聞いたか」
と、お尋ねになると、輔親は御格子を下ろしかけてひざまずき、
「聞きましてございます」
と申し上げました。
殿が、
「それにしては、歌ができるのが遅いではないか」
と仰せられるや、輔親はこう詠みました。
足引きの 山ほととぎす 里なれて
黄昏時に 名乗りすらしも
(四月になり、山ほととぎすはすっかり里慣れがしたらしく、黄昏どきにお屋敷に来て、我が名を名乗って鳴いているのでしょう)
殿はこれをお聞きになり、たいそうおほめになって、上に着ておられた紅色の御衣一つを脱いで、褒美としてお与えになりました。
輔親は拝領し、伏し拝んでから御格子を下ろし終わり、御衣を肩にかけて侍の詰所に出てくると、侍たちはこれを見て、
「いったいどうしたことだ」
と尋ねます。
輔親が事の次第を話して聞かせると、侍たちはこれを聞き、みな口をきわめて褒めたたえました。
また、この輔親の日頃乗り歩いている牛がいなくなり、八方捜していると、今はすっかりご無沙汰にしている知り合いの女の家にその牛が入り込んでいたので、女の所から牛を引いて来させ、
「少しもお出でくださらず、ひどい方だと思っていた貴方(憂しと見し心)より、牛のほうが、よほどましでございます」
と言って寄越したので、牛をもらい受け、その返事に輔親はこう詠んで遣りました。
かずならぬ 人をのがひの 心には
うしともものを 思はざらむや
(数ならぬ私ごとき者を嫌っておられるあなたにとっては、私の足が遠のいたところで、別にひどい<憂し>ともお思いにならないでしょうよ)
また、この輔親が桂(京都市西京区)という所に大勢の友達と遊びに出かけましたが、和歌などを詠み、「またここへ来よう」と言って、帰りましたが、その後、その桂には行かず、月の輪(京都市右京区)という所に皆で出かけ、桂には行かずに月の輪に来たということを歌に詠みましたが、輔親はこう詠みました。
さきの日に 桂の宿を 見しゆへは
今日月の輪に 来べきなりけり
(先日、桂の宿を見たその訳は、今日、月の輪に来るはずになっていたからなのだ)
人びとはこれをたいそう褒めたたえました。
この輔親は、能宣(よしのぶ)といった人の子であります。
その能宣も素晴らしい歌人でありましたから、父子続いてこの輔親もこのように上手に歌を詠むのであります。
これらは先祖代々、伊勢の祭主をつとめる家の子孫である、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
古来、和歌では「郭公」を「ほととぎす」と読む。本来は、別々の鳥。
「カッコウ(郭公)」はユーラシア大陸で繁殖し、夏、日本に来る渡り鳥で、冬は南方へ去る。自分で巣を作らず、托卵する。「カッコウ」と鳴く。
「ホトトギス(時鳥・不如帰)」はカッコウに似るが、それより小形。鳴き声は「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」「とっきょきょかきょく」などと聞こえる。夏鳥として渡来する。
祭主とは、伊勢神宮の神官の長。
大中臣氏は古代、中臣(なかとみ)氏といい、忌部(いんべ)氏と共に大和朝廷に祭祀をもって仕えた。鎌足が病没したとき、藤原という氏を賜ったが、鎌足の子・不比等の子孫以外は中臣氏に戻り、のちには大中臣朝臣を賜って、代々、神事を司った。
大中臣輔親の父は三十六歌仙の一人の能宣(よしのぶ)で、祭主でもあった。
本話の主人公・輔親は勘解由使の三等官・判官、美作守などをへて、祭主、神祇伯となる。最終官位は正三位。長暦二年(1038)六月二十二日、八十五歳で没した。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
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