巻26第10話 土佐国妹兄行住不知島語 第十
今は昔、土佐国幡多郡(高知県幡多郡)に住む下衆(身分の低い者)がありました。自分が住む浦ではなく、他の地の浦に田を作っていました。自分が住む浦には種を蒔き、苗代をつくります。苗が植えられる大きさになったなら、それを船に積んで、田植えする人を雇い、食物はもちろん、馬歯・辛鋤・鎌・鍬(くわ)・斧・鐇などの農具に至るまで、さまざまなものを船に積み、海を渡りました。
十四、五歳ほどの兄と、十二、三歳ほどの妹があり、二人の子を船に見張りに置いて、父母は殖女(田植えする人)を雇うため、陸にあがりました。
一時的なことと考えて、船を陸地にひきあげて、ともづなを解いたままにしていました。二人の童部(子)は船底でよりそい、寝ころんでいましたが、やがて眠ってしまいました。その間に満潮になったため、船は浮きあがり、吹く風に押し出されて沖に流されました。つづいて干潮になり、潮に引かれ、風に吹かれてはるか南の沖に流されました。まるで帆を上げた船のようでした。童部が驚いて気づいたときには、見たこともないような沖に出ていました。泣き叫びましたが、どうしようもなく、ただ風に吹かれて流されるばかりでした。
父母は殖女を得ることができず、「船にもどろう」と考えて来てみると、船はなくなっていました。
「風の当たらないところに隠れてしまったのかもしれない」と考え、あたりを走りまわり、子の名を呼んでみましたが、答えるものはありません。何度も何度も呼びましたが、跡形もなく消え失せており、ついにあきらめざるを得ませんでした。
船ははるか南の沖にある島に流れつきました。童部はおそるおそる陸に下り、船を繋ぎ見てみると、島にはまったく人がいませんでした。帰る方法はありませんから、二人で泣いていました。やがて、女子が言いました。
「もうどうしようもありません。だからといって、命を棄てるべきではありません。船に食物があるかぎり、少しずつ食べて命をつなぎましょう。それがなくなってしまったときのために、枯れてしまう前に苗を植えましょう」
男子は答えました。
「おまえが言うとおりにしよう。まったくそのとおりだ」
水のある、田にするべき地を探し出しました。鋤・鍬など、道具はみなありました。すべての苗を植えました。
さらに、斧や鐇などがありましたから、木を伐って庵をつくって暮らしました。果物がなる木がありましたから、実をとって食べるなどして明け暮らすうち、秋になりました。田はとてもよくできていたので、多くを収穫できました。そうして兄妹は暮らし、年頃になるとそのままでいるわけにもいかず、夫婦になりました。
やがて、年月を経るうち、多くの男子・女子が生まれました。それがまた夫婦になりました。大きな島でしたから、田をさらに作り広げることができました。兄妹の子孫はさらに広がり、今は島に満ちあふれるほどになっています。「土佐の国の南の沖に、妹兄の島(沖の島)がある」と人は語りました。
前生の宿世(縁)があったからこそ、兄妹は島に行き住み、夫婦となったのだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
宇治拾遺物語にほぼ同じ話がある。
兄妹が夫婦となるのはインセスト・タブー、世界のさまざまな地域で禁じられている近親相姦そのものだ。イザナキとイザナミ(兄妹神)の神話との関連が指摘されている。

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