巻6第4話 康僧会三蔵至胡国行出仏舎利語 第四
今は昔、天竺に康僧会三蔵という聖人がいらっしゃいました。仏法を伝えるため、震旦に渡る中途、胡(呉の誤りとされる)という国に入りました。
その国の王は未だ三宝(仏法僧)を知らなかったので、三蔵を見てあやしみ、「おまえは何者だ」と問いました。三蔵は答えました。
「私は西国の釈迦仏の弟子です。仏法を伝えるため、震旦国へ渡ろうとしてここにやってきました」
「その釈迦仏というのは、今でもいるのか」
「釈迦仏は衆生(人をふくめたすべての生物)のために法を説き、その後、涅槃に入られました」
「おまえは『釈迦仏の弟子』と名乗ったが、その仏はもうこの世にないではないか。おまえの師は誰なのだ」
「釈迦仏は涅槃に入られましたが、舎利(骨)を遺し、今も衆生を導いておられます」
「では、おまえは舎利を持っているのか」
「舎利は天竺にあります。私は持っていません」
「おまえの言うことは不確かなことばかりだ。とても信じられない。私がどうして天竺の舎利の有無を知ることができるだろう」
「舎利は持っていなくてもよいのです。祈れば、自然に現れ出るものです」
「では、ここで舎利を祈り出してみよ」
三蔵は承りました。王は言いました。
「もし舎利を祈り出せなかったら、どうするのか」
「そのときはこの首を取ってください」
今日よりはじめ七日を期限にして祈ることになりました。
三蔵は紺瑠璃の壺を机の上に置き、花を散じ、香をたき、祈り続けて七日たちました。国王は言いました。
「舎利は出たか。どうだ」
三蔵はもう七日くださいと言いました。七日を延べて祈りましたが、期限が来ても、舎利は出ませんでした。
国王は「どうだ」と問いました。三蔵はもう七日延べてくださいと頼みました。六日めの朝、三蔵が誠の心を発して、礼拝恭敬して祈っていると、瑠璃の壺の中に、大きな舎利が一粒、現じました。壺の中から光を放っていました。三蔵は舎利が出たことを国王に申しあげました。
国王が驚いて見ると、たしかに瑠璃の壺の中に、丸い白い玉があり、壺の中から白い光を放っていました。
国王はこれを見て言いました。
「おまえが祈り出した舎利は、本物とは言い切れない。どうやって本物だということを証明するのだ」
康僧会は言いました。
「本物の仏舎利は、劫焼の火にも焼かれず、金剛の杵にも砕かれません」
「ならば、試みてみよう」
三蔵はそれを受けいれつつ舎利に向かって誓いました。
「我が大師釈迦如来よ、あなたが涅槃に入り給いて久しくたちます。あなたは『滅後の衆生を利益する』と誓いを立てられました。願わくは、威力を施して、霊験を示してください」
国王は舎利を瑠璃の壺の中より取り出し、鉄砧の上に置いて、力ある人を選び出し、鎚でたたかせました。砧も鎚もくぼみましたが、舎利は塵ほども損じませんでした。国王はこれを見て、大いに信伏し、礼拝恭敬しました。
王は問いました。
「たしかにこれは本物の仏舎利だ。たびたび疑った私は愚かだった。これからは心を尽くして恭敬供養することにしよう。どこに置くべきだろう」
「寺を建て、そこに舎利を安置すべきです」
国王は三蔵の言にしたがいました。
寺の名は建初寺といいます。その国にはじめてつくられた寺なのでこう呼ばれます。この国に仏法が広まったのはここがはじまりと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 西村由紀子
ここで描かれた国王は三国志で名高い孫権である。建初寺は康僧会のために孫権が南京に建てた寺だ。
三蔵とは「仏教の典籍に通じた人」の意。高位の僧侶の尊称。もっとも有名なのは『西遊記』の玄奘三蔵(三蔵法師)だが、「三蔵」は一般名詞であり、康僧会は玄奘よりずっと前の時代の人である。
本話は三国時代(建初寺の建立は西暦247年)のできごとであり、西暦518年(南北朝時代)の宋雲の西域行を描いた前話(第三話)より古い話になっている。

(以下、草野記)
三国志の英雄の名をふせるなど現代日本では考えられないことです。この時代のあつかいがよくわかります。タイトルには(私が)入れました。
コメント