(①より続く)
巻6第3話 震旦梁武帝時達磨渡語 第三
梁の武帝の時代でした。武帝は巨大な伽藍を建立して、数体の仏像を鋳造し、塔をたて、数部の経巻を書写して思いました。
「私は殊勝の功徳を修した。これを智恵ある僧に見せて、讃められ貴ばれよう。この国にいる、賢い智恵があり、貴き聖人は誰だ」
ある人が答えました。
「近来、天竺より渡ってきた聖人があります。名を達磨といいます。智恵賢く、貴い聖人です」
武帝はこれを聞いておおいに喜びました。
「その人を召して、伽藍・仏経のありさまを見せて、讃歎されよう。また、彼の貴い功徳の理由を聞き、ますます殊勝の善根を修したい」
和尚は帝の召しに随って参上しました。帝は伽藍に迎え入れ、堂塔・仏経等を見せ、言いました。
「私は堂塔を造り人々を感化し、経巻を写し、仏像をつくった。どんな功徳があるか」
達磨大師は答えました。
「これは功徳ではありません」
武帝は思いました。
「和尚はこの伽藍の様子を見て、きっと讃歎し貴ぶことだろうと思ったのに、冷淡だ。こうなるとは思ってなかった」
問いました。
「どうして功徳ではないと言うのか」
達磨大師は答えました。
「このように塔や寺を造って、『私は殊勝の善根を修した』と思うのは、有為(うい)のことです。実の功徳ではありません。実の功徳とは、我が身の内に菩提の種があり、それが清浄の仏であることを思い、顕すことです。それに比べれば、これは功徳の数にも入りません」
帝はこれを聞いて、心外でした。
「どういうことか。私は『並び無き功徳を造った』と思っていたのに、このように謗るのは、なにか謀策があるのではないか」
帝は悪く受け止め、大師を追却してしまいました。
追却された大師は、錫杖をつき、嵩山に至りました。その山で会可(えか、慧可)禅師という人に出会いました。大師はこの人に仏法を付託しました。
やがて、達磨大師はその山で亡くなりました。弟子たちは、達磨を棺に入れて、墓にはこびました(埋葬はしなかった)。
二七日が経ったあと、公の使いとして、宋雲という人が旅をしているとき、葱嶺(パミール高原)で一人の胡僧(外国人僧)に出会いました。片足には草鞋をはき、もう片足ははだしでした。胡僧は宋雲に語りました。
「国王はたった今崩御しました」
宋雲はこれを聞くと、紙を取り出して、この日月を記しました。
数か月後、宋雲が王城に帰ると、「帝は既に崩じた」という報告を受けました。記した日月をみると、まったく違いはありませんでした。葱嶺で、このことを告げたのは誰だったのだろう。
達磨和尚であると知り、朝廷の百官と、達磨の門徒の僧をつれて、実否を知るために達磨の墓に行き、棺を開けて見ると、達磨の身はありませんでした。ただ、棺の中に草鞋が片方あるのみでした。
「葱嶺の上で会った胡僧は、達磨の草鞋の片足をつけ、天竺に帰ったのだろう。片方を置いていったのは、震旦の人に、それを知らせるためだ」
みながそう考えました。
この後、人々は「やんごとなき聖人があった」とかぎりなく貴びました。達磨和尚は、南天竺の大婆羅門国の国王の第三の子であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 西村由紀子
ひきつづきだるまさんの話。
梁の武帝の時代とは南北朝時代である。この話は南朝北朝それぞれの話を伝えている。
武帝の時代、梁(南朝)は最大領土を誇った。武帝は名君だったと言われているが、晩年は仏教に耽溺するあまり政治をおろそかにするようになり、官僚の横暴を招いて梁の滅亡のきっかけをつくった。
達磨大師は弟子の慧可に仏法を伝えたと記述されている。慧可は禅宗の第二祖となった。洛陽の人である。
達磨を嵩山の少林寺にたずねたが弟子入りを許してもらえず、左ひじを落とすことで至誠を示したというエピソード(慧可断臂)はことに名高い。
話の後段で語られる宋雲は、北朝(北魏)の人である。したがってここで語られている帝の崩御も、北魏の帝が亡くなったことを伝えていると思われる。ただし、達磨の死と帝の崩御は年時が異なっていて、ここでの記述には合致しない。
宋雲は敦煌出身で洛陽にあったが、命を受けて西域を旅し、経論を得て洛陽に戻った。達磨と会ったと伝えられる葱嶺(パミール高原)は中国から西域に至る交通路である。
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