巻1第23話 仙道王詣仏所出家語 第廿三
(巻一第二十三話①より続く)
仙道王は影勝王に書状を送りました。
「私はあなたのおかげで真諦(真理)を得ました。願わくは、比丘(僧)に会ってみたいと思っています。わが国に呼んでいただけますでしょうか」
影勝王は書状を読むと、すぐに仏のもとに詣でて、申し上げました。
「仙道王はこのように初果(須陀洹果)を証しました。比丘を見たいと言っています。私が思うに、迦多演那(かたえんな、マハーカーテャーヤナ)比丘は、かの国に縁があります。派遣すべきと思います」
仏の言にしたがい、迦多演那は五百人の比丘を率いて勝音城におもむきました。影勝王は仙道王に言いました。
「あなたが縁生を悟り、初果を得たことを伝えると、仏は勝音城に五百の比丘を派遣してくれました。自ら出て迎えてください。寺を建て、五百の僧坊をつくってください。あなたは無限の福を得るでしょう」
比丘は仙道王の国で法を説き、あるいは阿羅漢(聖者)となり、あるいは大乗に向かいました。
王宮の女性たちが、尊者(迦多演那)の説法を求めました。しかし尊者は、女人の中に入って法を説こうとはしませんでした。戒律を破ることになるからです。
尊者はこう言いました。
「比丘尼(びくに、尼僧)があったなら、彼女たちのために法を説けるだろう」
仙道王は影勝王に書状を送り、これを伝えました。影勝王は書状を見ると、仏に申し上げました。
「世羅(せら)など、五百人の比丘尼を遣わすとよいでしょう」
仏はこれを受け、世羅など五百の比丘尼を勝音城に遣わしました。
仙道王の后・月光夫人が命を終え、天上界に生れたのはその後のことです。彼女は天上界からそれを王に伝えました。
王は世を厭うようになりました。
「頂髻(ちょうまん)太子に国位を譲り、私は出家して、道を求めることにしよう」
二人の大臣にこのことを告げると、大臣たちは、涙を流して太子にこれを伝えました。太子もまた、たいへんに嘆き悲しみました。王はさらに、国じゅうの人にこれを伝えました。国民たちはこれを聞くと、おおいに嘆き哀しむとともに、王の恩に報いるため、多くの財宝を集めて、無遮の大会(むしゃのだいえ、身分に関わらず国民全員が参加する法要)を国をあげて営みました。
王がたった一人の侍者をともなって、歩いて王舎城に向かったのはその後のことです。王舎城ははるかに遠く、歩いて行けるようなところではありませんでしたが、道を求めるがゆえに、退く気はありませんでした。太子も、大臣・百官も、人民も王にしたがって行くことを求めましたが、王はそれをとどめ、歎きながら彼らと別れてきました。
王はたった一人の侍者とともに、ついに王舎城に至りました。ひとつの庭園に入り、影勝王に来訪を告げました。影勝王はこれを聞くと、即座に道路をととのえ、四兵(象兵、馬兵、車兵、歩兵)をひきいて、大臣・百官とともに仙道王に対面しました。仙道王に問うと、王はこう答えました。
「私はあなたの徳によって道につくことができました。今は、仏陀を見て、仏の御前で出家したいと考えています。そのために国位を太子にゆずり、ひとりでやってきたのです」
影勝王はこの言葉に涙を流して感動しました。ともに城に入りました。
そのとき、仏は竹林薗(竹林精舎)におりました。影勝王は仙道王をつれて、仏の御許に参りました。
仙道王は言いました。「出家したいと思います」
仏は「よく来た」と言いました。
すると、仙道王の髪は自然に抜け落ち、まるで百歳の比丘(僧)のような姿になりました。受戒し、仏の御弟子となりました。影勝王はこれを見守り、とてもうれしく思いました。仏に一礼して辞しました。
仙道王が仏道に入ったのは、影勝王と行雨大臣の徳によるものです。仙道王は仏法を知りませんでしたが、仏に会うことができ、大いなる益を得たと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
前項でも述べたが、インドや中国で「城」といえば都市を意味する。王舎城もまた、ラージャガハという都市の漢訳である。王舎城にはこの話に述べられている竹林精舎のほか、『法華経』説法の舞台となった霊鷲山もあった。
仏陀の高弟だったシャーリプトラ(舎利弗)やマウドガリヤーヤナ(目連)も王舎城の出身である。仏教教団がその大きさを増したのは、このふたりが多くの人をつれて入信したからだ。仏陀の言をまとめてお経をつくる結集も、第一回はここでおこなわている。
世界宗教・仏教は王舎城がつくったと言っても過言ではないだろう。インド・ビハール州に存するが、州都ではない。
行雨大臣は雨行大臣とも呼ばれ、未生怨(阿闍世。父を幽閉して殺し、脳病に冒され、その後仏教を庇護した)のドラマチックな半生を彩る人物となった。浄土和讃(親鸞の作)にも詠み込まれている。
コメント