巻20第1話 天竺天狗聞海水音渡此朝語 第一
今は昔、天竺(インド)に天狗がおりました。
天竺より震旦(中国)へと渡る道に、海の水が
「諸行無常。是法滅法。生滅々已。寂滅為楽。」
と鳴るところがありました。
天狗はこれを聞いて大いに驚き、「海の水が、なぜありがたい深遠な法文を唱えるのだろう」と怪しく思いました。
「水をたどり、この音の元をたずねて、邪魔してやろう」と考えました。音を追い、震旦に至りましたが、まだ同じように鳴っています。
さらに、震旦も過ぎ、日本近くの海でも、まだ同じように鳴っています。九州は博多の港を過ぎ、門司の関に至ると、音がすこし大きくなりました。天狗はいよいよ怪しく思ってたずねていくと、河尻に至りました。そこから淀川に入ると、音はさらに大きくなりました。淀川から宇治川に入ると、さらに大きく聞こえます。音を追いかけて川をさかのぼっていくと、近江の湖(琵琶湖)に至りました。音はいっそう大きくなりました。
さらに音をたどっていくと、比叡山の横川から出る川から聞こえます。ここで法文をやかましく唱えていたようです。四天王とさまざまな護法神が、この水を守護していました。天狗は大いに驚き、近くに寄らずに隠れて聞いてましたが、恐ろしくてたまりませんでした。
あまり位が高くない天童がいたので、天狗はおずおずと近づいてたずねました。
「いったいこの水は、どうしてありがたく深遠な法文を唱えているのですか」
天童が答えました。
「この川は、比叡山に学ぶ多くの僧の厠から流れ出ています。そのため、水もありがたい法文を唱えるのです。われわれ天童もまた、これを守護しています」
天狗はこれを聞いて、「音を邪魔しよう」という考えを失いました。
「厠から流れ出る水でさえ、これほど深遠な法文を唱えるのだ。比叡山の僧の貴さは言うまでもない。私はこの山の僧となろう」
そう誓いを発して、姿を消しました。
その後、宇多法皇の御子、兵部卿有明(ひょうぶきょうありあけ)の親王という人の子となり、その妻の腹に宿って出生しました。誓いのように法師となり、比叡山の僧となりました。名を明救といいます。延昌僧正の弟子として出世し、僧正になったということです。浄土寺の僧正、または大豆の僧正とも言われたといいます。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【校正】
草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
草野真一
天竺(インド)、震旦(中国)と、文化の先進国ふたつが並び、主人公は天狗。さぞかしワールドワイドな話が展開されるかと思いきや、オチはすごくせこい。思わず「そこかよ」と言ってしまった。当時はそれなりにありがたい話だったのかもしれない。
「諸行無常」からはじまる四行詩は、「雪山偈」と呼ばれるもので、雪山(ヒマラヤ)で修行中の前世の釈迦が、下の句を聞くために自分の肉体を差し出したという、これまたスケールの大きいもの。しかしこの話では、オチはそこかよ感をさらに強めている。
ちなみに天狗は四天王などに恐ろしくて近づけない。天童は位が低いので、話しかけることができたのだ。
●中国語
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