巻27第38話 狐変女形値播磨安高語 第卅八
今は昔、播磨国(兵庫県)に安高という近衛舎人(このえとねり、*1)がいました。右近の将監(*2)であった貞正の子です。法建院の御随人(みずいじん、*3)を務めていて、安高がまだ若かった頃に、殿が内裏にいらっしゃる間のことでした。
安高の家は西の京にあったので、安高は内裏に伺候していましたが、従者も見当たらなかったので、西の京の家に行こうとして、たった一人で内野通りへ行きました。九月の中旬頃(旧暦)だったので、月がたいへん明るくて、夜も一層更けて来て、宴の松原まで来ると、濃い紫色で光沢を出した袙と、紫苑(しをに、*4)色の綾地の袙を重ね着した女童(めのわらは、*5)が前を通り過ぎました。姿形や頭髪の形は言いようも無いほど月影に□て素晴らしいものでした。
安高は長い沓(くつ)を履いて忍び足で歩いて行って、並んで見てみると、絵を描いた扇でもって顔を隠してう見えないようにしていました。額や頬なども、乱れ髪がかかって、言葉に表せないほど端麗でした。
安高が近寄って触れようとした所、薫物の香りが芳しく匂いました。
「こんな深夜にどこのお方ですか」と安高が尋ねると、女は、「西の京に、人に呼ばれたので行く所です」と答えたので、安高は、「その人の許にいらっしゃるよりは、安高の許においでなさい」と言ったので、女は笑い声で、「どこのどなたともご存じないのに」と答える様はたいへん愛嬌がありました。こうしてお互いに語り合いながら、近衛の御門(陽明門)の中へ歩いて入って行きました。
安高は、「豊楽院の中には人を化かす狐がいるという。もしや、これがそうではないだろうか。こいつ、驚かして試してやろう。まるで顔を見せないのが怪しい」と思い、女の袖をつかまえて、「ここでしばらく止まって下さい。聞きたいことがあります」と言うと、女は扇で顔を隠して恥ずかしがったので、安高は、「実は俺は追剥だ。その服を剥いでくれる」と言いました。狩衣(かりぎぬ、*6)の紐を解いて引っ担ぎ、氷のような刃渡り八寸(約24センチ)の刀を抜き放ち、切っ先を女に向けて、「その喉を掻っ切ってやる」「その服をよこせ」と言って、髪をふんづかまえて柱に押し付け、刀を顎に差し当てると、女は酷く臭い小便を前に男に引っ掛けました。
安高が驚いて油断している間に、女は狐に変化して門から走り出し、コンコンと鳴き、大宮大路を北に逃げ去りました。安高はこれを見て、「『もしかしたら人ではないか』と思っていたからこそ殺さなかったのに、こうだったと知ってたら必ず殺してくれていたものを」と腹立たしくて悔しく思ったけれど、どうにもなりませんでした。
その後、安高は夜中、明け方を問わず、内野通りに行ったけれど、狐は懲りたのか会うことはありませんでした。狐がたいへんな美女に化けて安高を□□とする程、寸での所で死を免れたのでした。だから、人は遠い野原で一人で居る時は、いい女を見てもついその気になって触れようとしてはいけません。
これも安高の常日頃の用心があったからこそ、女色に惑わされないで□□されなかったと語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 長谷部健太
【校正】 長谷部健太・草野真一
【協力】草野真一
【解説】長谷部健太
狐が美女に化けていたのを見やぶった男の話。薫物の香りが芳しかったというが、正体が狐なのだから一体何の匂いだったのやら。
最後の方にある諸本欠字の「□□」には何が入ったのか、意外に人を殺してしまうこともあるので「殺」だろうか。
*1…近衛府(皇居や、天皇の行幸の守護・警備を務める)の随人で、将曹(六等官)以下の下級職。
*2…右近衛府の三等官。
*3…高位・高官の外出に際し、剣や弓矢で武装して供奉(ぐぶ)した近衛府の舎人のこと。
*4…「かさね」の色目(重ねて着た服の配色)の名。表は「薄色(薄紫)」で、裏は「青」。
*5…女の子、少女。
*6…公家の正装である直衣に対し、狩りの際に着るスポーツウェアで、平安貴族の常服。後には武家も着る。
[貞正(さだまさ)]…『二中歴』『小右記』『中右記』『江談抄』等の記録から、播磨定正と見られる。天元五年(982)~永観三年(985)頃の人。
[法建院(ほうこんゐん)]…正字は法興院。二条の北、京極の東にあった南北二町に渡る邸。または藤原兼家のこと。摂政・関白を務め、道長の父。兼家が正暦元年(990)に別邸二条院を寺とし、院内に積善寺(しゃくぜんじ)があった。
【参考文献】
日本古典文学大系『今昔物語集 四』(岩波書店)
『今昔物語集 本朝世俗篇(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)
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