巻六第四十五話 死んだ母が鹿となって現れた人の話

巻六(全)

巻6第45話 震旦梓州郪県姚待写四部大乗語 第四十五

今は昔、震旦の梓州の郪県(四川省三台県)に姚待(ようたい)という人がありました。長安四年(704年)、丁憂(ていゆう、父母の喪中)のとき、姚待は願を発し、亡くなった父母のために、四部の大乗経を写しました。法華経・維摩経各一部、薬師経十巻・金剛般若経百巻です。

ある日の午(昼)の時、一匹の鹿が門を突いて入って来て、経を置いた机の前に立ち、頭を挙げて舐(ねぶ)りました。家には犬がおりましたが、この鹿を見ても、まったく吠える様子はありませんでした。

これを見た姚待は床より下り、泣きながら鹿を抱きました。鹿はまったく驚き怖れる様子がありません。
「これはただの鹿ではない」
姚待は三帰の法を説いて授けました。鹿は、踊るように喜んで、足を折り曲げて座り、逃げようとはしませんでした。

家の者たちがこれを不思議がって見ていると、次に屠児(えとり)が一人やってきて、経の机の前に立って、金剛般若経を奪って走り去りました。その行方は知れませんでした。

その後、隣家の人の夢に、語る人がありました。
「鹿は、姚待の母である。屠児は姚待の父である。それぞれ業をつくったために、これらの身を受けている。しかし、姚待は父母のために四部の大乗経典を写した。そのことで父母それぞれがやってきて、現在のありさまを示したのだ」

隣人はすぐさま姚待の家に行き、夢の告を語りました。姚待はこれを聞いて、泣き悲しみ、いよいよ経の霊験を信じたと語り伝えられています。

【原文】

巻6第45話 震旦梓州郪県姚待写四部大乗語 第四十五
今昔物語集 巻6第45話 震旦梓州郪県姚待写四部大乗語 第四十五 今昔、震旦の梓州の郪県に一人の姚待有り。長安四年と云ふ丁酉の年を以て、姚待、願を発して、亡ぜる父母の為に、四部の大乗経を写し奉る。法花

【翻訳】 西村由紀子

【校正】 西村由紀子・草野真一

【解説】 草野真一

写経は選ばれた人のみができる供養である

写経をイージーな供養と考える人が多いようだ。アンタ、現代病に冒されてるぜ。

当時、紙は現在とは比較にならないほど貴重であり高価なものだった。かりに安価な紙があったとしても、それを供物にすることはできない。写経とは財力がなければできないことだった。

さらに、文字を読める人がすくなかったことも考慮に入れる必要がある。写経は一定の知識水準がなくては不可能だったのである。
日本の例で恐縮だが、江戸の職人(江戸市民のほとんど)には、「字を読めるなんてナマイキだ」という価値観がふつうにあった。したがって、戦前においては文字が読めない人もめずらしくはなかった。日本の文盲率を低下させたのは戦後教育の大きな手柄である(これを主張する人がすくないのは嘆かわしいことだ)。

ウチのおじいちゃんは、漢字は読めたがアルファベットが読めなかった。死んでだいぶ経つから時効と考え付言すれば、それを生涯恥じてもいた。
写経は誰でもできることではなく、財力と高い知的水準、そのふたつがそろってはじめて可能になることだったのだ。

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ここには、祖霊崇拝、もっといえば葬式仏教への端緒がある。もともとインドには祖霊崇拝の志向はなく、中国でさかんになったものといわれている。日本に入った仏教が祖霊崇拝から離れられないのは、中国仏教の影響も大きいのだ。

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