巻17第26話 買亀放男依地蔵助得活語 第廿六
今は昔、近江の国甲賀の郡(滋賀県甲賀市)に一人の下人がありました。とても貧しく、よりどころもありませんでした。妻は常に人に雇われ、機織りを職業として生きていました。
妻は織った布を一反、自分のために持っていました。
夫に語りました。
「私たちは年来、貧しい暮らしをして、頼むところもありません。私は布一反を自分のために織り持っています。聞けば、箭橋(矢橋)の津に漁師が多く集まり、魚を捕えて商っているといいます。この布を持って、彼の津に行き、魚を買ってください。田を一、二段つくって、それで生活していきましょう」
夫は妻の言にしたがい、布を持って箭橋の津に行き、漁師にこのことを語り、網をひかせましたが、魚を捕ることはできませんでした。ただ、大きな亀一匹を引き上げたのみでした。漁師はこの亀を殺そうとしましたが、男はこれを見て、あわれみの心を起こしました。
「この布で、この亀を買おう」
漁師は喜び、布と亀を交換しました。男は亀を得て言いました。
「亀は命の長いものだ。命があるものは命をもって財とする。私は貧しいが、布を棄て、おまえの命を助けよう」
亀にそう言い聞かせ、海に放ちました。
男は何も持たずに帰りました。妻は待っていて問いました。
「どうしたのですか、魚を得たのではないのですか」
「布で亀の命を助けてやった」
妻はこれを聞くと、大いに怒り、夫を責めそしり、悪態をつきました。
ほどなくして、夫は病を得て死にました。金の山崎の辺(共同墓地と考えられる)に棄てました。
三日を経て、夫は生き返りました。伊賀(三重県伊賀市)の守が、任地に行く際、この生き返った男を見つけ、慈の心から、水をくんでやり、口に入れて喉を潤してやりました。妻はこれを聞き、夫を背負って帰りました。
しばらくして夫が妻に語りました。
「私は死んだ後、官人に捕らえられ、広い野の中を追い立てられて官舎の門に至った。門の前庭には、多くの人を縛られ倒れていた。恐ろしく怖くてたまらなかった。
そのとき、端厳な小僧が出て来て言った。
『私は地蔵菩薩である。この男は、私に恩を施した者だ。私はかつて、有情(生物)を利益するために、近江の国の江辺に大いなる亀として在った。漁師に引捕えられ、命を奪われようとしたとき、この男は慈の心を発し、亀を買い取り、命を助け、江に放った。しかれば、この男をすみやかに免し、放ちなさい』
官人はこれを聞くと、私を免した。
小僧は私に告げた。
『早く本国に帰れ。善根を修し、ゆめゆめ悪業をなすことのないように』
道を教えてもらい帰るときに、二十余歳ほどの美しい女人が縛られているのを見た。女の前後に二人の鬼があり、打ち追っていた。
女にたずねた。
『あなたはどういう人ですか』
女は泣く泣く答えた。
『私は筑前の国宗方の郡(福岡県宗像市)の官首(頭領。郡司の下役)の娘です。とつぜん父母と離れて、ひとり暗い道に入り、鬼に打ち追われています』
私はこれを聞いて女をあわれんだ。そして先の小僧に伝えた。
『私はすでに年なかば、残りの命はいくばくありません。この女は若く、将来がある身です。私がこの女にかわります。彼女を免してください』
『おまえの慈悲の心はすばらしい。自分の身に替えて人を助けることは、とてもありがたいことだ。私はふたりを免すことを請おう』
小僧は鬼に事情を話し、ふたりは共に免された。女は泣きながら礼を言い、再会を約束して別れた」
その後しばらくして、「あの冥途で出会った女をたずねよう」と思い、筑紫()に行きました。筑前の国宗方の郡の官首の家に至り聞くと、年若い女がありました。聞けばその女は、病を受けて死んだが、二、三日でよみがえったといいます。
男はこれを聞くと、冥途であったことを伝えさせました。娘はこれを聞くと、転げるようにして出てきました。たしかに冥途で見た娘でした。娘もまた、冥途で出会った男だと思いました。たがいに涙を流しながら、冥途のことを語りました。
親交を結び、男は本国に帰りました。それぞれが道心を発し、地蔵菩薩に仕えたと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
機織りは、当時貧困の象徴とされていたという。
文中に「海」とあるが、話の舞台は琵琶湖であるから、海ではあり得ない。亀は淡水のカメである。琵琶湖には現在も多くのカメが生息しているが、ほとんどが外来種だ。
主人公が冥途で女と出会うのは、妻がこの世で夫を冷たくあしらったことと関連があるのだろう。女とは「約束」し「親交」を結ぶが、どちらも原文は「契り」である。
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